2009年3月29日日曜日

おもしろいジェンネ語。

こんにちは。

昨日は所用のため、一日で130kmをおんぼろ乗り合いバス(大型ワゴン車に25人詰め、屋根にも荷物、ひと、ヤギが乗っている)で移動したので、ちょっとへとへとです。

今日はすこし趣向を変えまして、私の独断と偏見で、興味深いジェンネ語(ソンライ語という言語のジェンネ方言)の言葉を、4つほどご紹介します。

(1)コイ

ジェンネ語で動詞の「行く」は「コイ」と言います。「行く」なのに「来い」なので、妙な感じ。特に命令形のとき。例えば仕事の邪魔をしてくる子供に、あっちに行きなさい!と怒るとき、「コイ・ドーディ!」と言います。追い払うのに「来い!」と発音しなくてはならないので、何度言っても慣れません。

(2)ハリ・フトゥ

イスラームでお酒はご法度です。こっそり隠れて飲んでいる人もいますが、やはりごく少数です。そんなジェンネでお酒のことをなんと言うかというと、「ハリ・フトゥ」。直訳すると「意地悪な水」とか「怒った水」。

意地悪な水!

なんだかちょっと、詩的な表現にすら思えます。ウィスキーの語源は「命の水」だと聞いたとき、
詩的な表現だなと思ったものですが…。同じ物が同じく詩的に表現されていても、所変わればベクトルは真逆。

(3)チビチャバ

ジェンネ語で、子供は「イジェ」とか「イジャ」と言います。お年寄りからすれば、20歳くらいもまだまだひよっこ、「イジェ」です。ですから、特に小さな子供を意味したいときには、「イジャカイナ」、
小さな子供、と表現します。

そしてさらに小さい子供(3,4歳くらい)を意味したいときには、なんと表現するかというと、「チビチャバ」。

ちびちゃば。

ひらがなで書くとかわいさ倍増。あまり使われない言葉ですが、耳にするたび、「かわいい」が大好きな日本人の私はひそかに一人で、きゅん!としています。

(4)アルジェネ・ガイ

ジェンネの町のまわりにも、めったに見かけませんが蛍がいます。蛍のことをジェンネ語で「アルジェネ・ガイ」、つまり、「天国の光」と言います。

蛍の光に、どことなく妖しげで魅惑的なあの世の幻想をみるのは、日本でもこちらでも同じようです。

        ***

大人になって新しい言語を身につけるのはなかなかに大変で、フランス語にしろマリの諸言語にしろ、「嗚呼、自分が小さな子供だったら、すらすら身につくのだろうな…」と落ち込むことも、多々あります。でも、大人になって新しい言葉を身につける喜びももちろんたくさんあるわけで。

上にご紹介したように、その言語を話す人たちの様々な認識の仕方を言葉のなかに見出して、母語のそれと比較する奥深さは、子供にはなかなかできないことです。年とともに新しい言語の吸収が遅くなるかわりに、大人に与えられた特権だと思っています。

2009年3月25日水曜日

泥の階段出現。



こんにちは。今日は頭痛ズンズンですが、たいしたことなく元気です。

きのうの夕方、インタビュー先からおうちに戻ってくると、わたしのテラスの前に、突如、階段が出現していました。3時間ほど前に家を出たときには、なかったのに!

私は階段を作って、と誰かに頼んだ覚えはありませんし、階段を作る、という話も大家さんからは聞いていません。なんじゃこりゃ、と驚く私をよそに、お隣やお二階の奥さんたちが、「あらミク、おかえり。いいわねぇ、この階段」などと言いながら昇り降りして、新しい階段を楽しんでいます。

事情がつかめないので、歩いて1分ほどの大家さんのところへ。「あのぅ、知らぬ間に、うちの前に階段が…」。すると、大家さんは満足げに「どうだぃ?昇りやすいだろ?」。どうやら階段は、魔術でも誰かのイタズラでもなく、大家さんが人に頼んで作らせたものらしく、ひとまずほっとしました。

大家さんが説明してくれました。

「カディ(お隣の奥さん)が、ミクがテラスに昇るときにつらそうだと言ってきたんだ。小さなお前には、段がちょっと高いんじゃないだろうかって。だから、階段を作らせた」。まぁ、段差は確かに、足が短い私には高めですが、別に昇るのにしんどいほどではなく…。まだ、いまいち事情がつかめません。

「お前は、なにか言いながら力を入れないと、段を昇れないんだろ?カディがそう言っていた。それはかわいそうだということで、階段を作らせた。費用はたいした額じゃない、気にするな」

何か言いながら力を入れるぅ?・・・・あ!

わたしは、この段を昇ったり、荷物をこの段に載せるときなどに、小さな声で『よぃしょ』とか『おぃっしょ』と言います。別に、しんどいから言っているわけではなく、自然と口をつくだけ。

もちろんお隣さんのカディは日本語がわからないので、私が毎回、段を昇るのがしんどくて唸っているのだと思って、大家さんに進言したようです。

嗚呼、カディも大家さんも、なんて優しいのかしらん。そうでない人も、もちろんたくさんいるこの町で、
ラッキーなことに、いい人たちに囲まれて仕事させてもらってます。


――ということで、私の部屋の前に、階段ができました。泥の町では、もちろん階段も泥製。(泥の日干しレンガを泥で接着。)

必要と思ったことのない階段でも、あったらそれなりに便利です。すたすた昇り降りしています。
心配性のカディも、きっとこれで安心。

2009年3月22日日曜日

代読・代筆 うけたまわります。

こんにちは。暑くてあせもができました。28歳にして、シッカロールをぱたぱたしています。

さて、

ジェンネには2か所、インターネットができるところがあります。首都から遠く離れた地方の町でネットができるとは、恵まれています。どちらも、ここ数年でできたものです。

首都バマコにはあちこちにネットができるお店があり、1時間300C~500CFA(60~100円ていど)。安くて身近です。ジェンネでは設備費の問題や競合相手が少ないこともあり、1000FCFAと倍以上。なので、ジェンネでネットを利用しているのは、主に、現金収入が安定している商人や、首都から赴任している役人、そして外国人観光客です。わたしも週に2回くらい利用します。

ネットをしていると、たびたび、メールの代読・代筆を頼まれます。

「僕は字が読めないから、このメッセージを読んでくれる?」「今から私が話すことを、代わりにパソコンで打ってほしいのだが」という風にです。

マリの公用語であるフランス語の識字率は、46.4 %(15歳以上でフランス語を読み書きできる割合)特に田舎では、話せるけど書けない、という人も多いのです。

すらすらフランス語を話せるけど書けない、という彼らが、子供のような拙いフランス語しか話せないけど書ける、という私に音読・代筆を頼むので、ちょっと恐縮します。

頼まれるメールの内容は、たいていが、観光や雑貨の買い付けなどでやって来たヨーロッパ人との、近況のやりとりや商談です。が、たまぁに、音読しづらい内容のものもあります。ざっと目で一読して「これは他人に聞かれてはマズイのでは」という内容の時は、その人に、こそこそ小声で読み伝えます。

二度ほど、「早く読んでよ。何て書いてある?」とせかされ、大きな声で読んでいる途中で、そのまずさに気づくことがありました。

ひとつは「わたしたち、もう無理よ」という、恋の終わりの常套句。もうひとつは、「君のビジネスのやり方はあまりに酷い。今後一切かかわりたくない」という、深刻そうな商談不成立の通告。

べつに私のせいではないのですが、読み伝えている途中でみるみるしゅんとしていく彼らをみて、おろおろしてしまいました。

今しがたうけたまわった代筆は、初めての子供(しかも双子)が生まれたこと、奥さんも子供も元気なことを、以前ジェンネにボランティアで来ていたアメリカ人の友達に知らせるメッセージでした。ああ、なんとほほえましい内容。

毎回、こういう内容であれば、気まずい思いをせずにすみます。

2009年3月19日木曜日

ガリブ。

ジェンネには「ガリブ」と呼ばれる子供たちがいます。ジェンネ以外のマリの町にもいますが、ここは特に多い。かれらは、よそから来たコーラン学校の生徒たちです。

ジェンネは西アフリカでも有数のイスラーム学術都市として中世から有名で、いまでも町のなかに50以上のコーラン学校があります。よその町や国から、有名なジェンネで学ばせようと、親が子供を送ってくる場合もあります。いわばジェンネ留学です。留学してくるのは主に、10歳前後から15歳くらいの男の子。

学んでいる先生の家にお世話になり、そこでご飯を食べている子もいますが、たいていは、日本のお坊さんでいう「托鉢」「乞食(こつじき)」をして、ご飯を得ています。

ご飯時になると、小さな蓋付きのバケツをもって家々をまわり、「アーラガリブ」という決まり文句を言ってご飯を乞います。だから皆、かれらを「ガリブ」と呼びます。

もちろんすべての家にガリブに分けるご飯があるわけではなく、まだ家のひとが食べ終えてない場合もあるので、ガリブにあげるご飯がないときには、「アララン」と言って断ります。

断られてもなお、じぃっと物欲しげにご飯を見つめて立ち去らなかったりすると、家の人に、「ないって言ってるでしょ」と怒られたりします。(間の悪いガリブやくどいガリブは、そんなに邪険に扱わなくても…と言いたくなるくらい、シビアに追い払われます。)これも修行とはいえ…がんばれガリブ。

今朝、庭で朝ごはんを食べていると、とても小さなガリブがやってきました。まだ4歳くらい。「アーラガリブ」と乞う声も、なんだか舌ったらずで、もじもじ恥ずかしげ。ジェンネにガリブはうじゃうじゃいるものの、こんなに小さなガリブ君は、あまり見かけません。まだ新入りかしらん。

あげる食事がないときにはガリブをきっぱりを断るお隣さんも、さすがにちょっといじらしく思えたのか、25CFA硬貨渡していました。(5円くらいですが、朝食用の揚げパン1個は買えます)

ガリブのなかには、コーラン学校をドロップアウトして、こうした乞食(こつじき)だけをして、気ままなだらだら生活に堕している子もいて、コーラン学校の先生たちがかかえる問題のひとつにもなっています。

今朝のちびっこガリブ君、こんなに小さな時から(おそらく)親元を離れて一人で勉強しに来ているのだから、できればドロップアウトせず、ジェンネでたくさん学んで、ゆくゆくは立派なお坊さんになってほしいな、と思います。

と同時に、たとえ信頼のおけるよい先生のもとに送ったにしても、もうちょっと物心ついてから留学させてもよかったんじゃないかしら…と、ちびっこガリブの親に言いたくもなりました。できれば有名なところで学ばせたい、という親の気持ちも分からないでもないし、来たからにはがんばってほしいけれど…

私にとってはちょっと複雑な、ちびっこガリブちゃんの来訪でした。

2009年3月17日火曜日

くだものあめ。

こんにちは。

3月も中旬にはいって、徐々に暑さが増してきました。まだピークの月ではないとはいえ、すでに昼間は40度をさくっと越えます。

ジェンネの1年の季節サイクルは、端的に言うと、やや暑→暑→雨、です。年によって前後しますが、雨季は6月や7月のはじめ頃から始まり、9月末ころに終わります。雨のピークの8月には、毎日のように激しいスコールが降ります。

いまは雨季ではありませんが、きょうの夕べに、雨が降りました。雨季以外で雨が降ることは、めったにありません。雨季の激しい叩きつける大粒雨と違い、遠慮がちに、ぱら、ぱらぱらっと降り、5分ほどでやみました。

おやおや雨だ、と空を見あげていると、近所のおじいさんが、「こういう雨を、わたしたちはトゥクリジェ・バーナという」と教えてくれました。

ジェンネ語でトゥクリジェとは、木の子ども、つまり果物。バーナは雨。この時期のたまぁに降る雨を、田んぼや牧草、魚をもたらす雨季の雨と区別して、果物をもたらす雨、「果物雨」と呼ぶそうです。

そろそろ、あちこちの家の中庭に植わっているマンゴーの木の実が色づいてきました。マリのもうちょっと南のほうからやってくるパパイヤ、バナナ、柑橘類も、市で目にするようになってきました。果物の豊かな季節です。

2009年3月13日金曜日

住んでいるおうちの紹介をします。





ジェンネはその独特の建築で有名です。

建物はすべて泥からできています(泥の日干しれんがと泥のしっくい塗り)。建物の様式も、かつてジェンネを支配したモロッコの様式や交易でもたらされたアラブ風の様式と、この一帯に特有の様式が混ざりあったりしていて、混交の妙を感じます。

私がお世話になっているおうちの間取り図を描いてみました。(以下の文章、調査メモも兼ねているので長くなりました。すいません。)

一般的なジェンネの家は、このように複数の部屋が中庭を囲む形です。一家で住んでいる場合もあれば、わたしの住んでいる家のように、複数の世帯が長屋かアパートのように間借りしている場合もあります。ここには、私も含め、4世帯16人が住んでいます。(4の若者部屋を除く)トイレ、水浴び場、中庭は共有です。庭にはアヒルが8羽います。

a.水道 
10年ほど前から、各家の敷地内に水道が増えたといいます。水道がない家は、町内の複数箇所にある公共水道から、バケツ1杯いくらか(たしか10F)で運んできます。

1.トイレ(小便用)

屋根、扉なし(扉を取り付けている家もあります)。1mほどの壁で囲んであるだけです。死角でうまく用を足さないと、うっかり道行く人やロバ、ヤギと目が合ってしまいます。     

2.ちょっとからだを洗うところ:1と同じく。

3.玄関間

家によって使い方は様々。小さな売店、コーラン学校の教室、家畜の繋ぎ場、夕涼みなどに使われます。わたしのところでは、日差しが強い時間帯に女性たちがここで杵つきをしています。

4.若者部屋

家の息子や近所の同年代の男の子用の部屋。ジェンネでは男の子は15歳くらいになると、結婚するまでこうした部屋で同輩と一緒に仕事や学校以外の時間を過ごします。彼らが眠るのもここです。部屋は家の敷地内にはあるものの、メインの玄関ではなく、この部屋に直接通じる入り口があるため、若者の自由な出入りが保たれます。若いのが夜遅くまで騒いでうるさい時もありますが、常にここにたむろしている彼らは、家の住民の御用聞き、力仕事の格好の要員で、夜には門番の役割も果たしています。

5.かまど

料理は可動式の炉をつかって中庭でも行いますが、ここには備え付けられたかまどがあります。

6~9.寝室

わたしの部屋は7のところで、6畳くらいでしょうか。点線部はベランダ。内装ももちろん泥です。床は土間です。こちらでは、部屋の中はあくまで夜に眠る場所、荷物を置いておく場所という感じで、おしゃべり、料理、食事などの、寝るまでの時間の生活の中心は、ベランダと中庭です。
 
10.トイレ(大用)兼 水浴び場

トイレといっても、地面に直径約20cmの穴のぽっとん便所。1階のかまどの隣(4と5の間)の壁は1,2階を貫く空洞になっていて、そこに落ちていきます。溜まってくると、壁に穴を開けて取り出します。空気が乾燥しているうえに、真下のかまどの熱が加わるので(そのために真下にかまどを作る)、日本のぽっとんほど臭いは気になりません。ここも屋根・扉はなく、1m20cmくらいの壁に囲まれているだけです。用を足しているときには、布を壁にかけたり、近づく足音に咳払いなどでアピールしないと、うっかりお隣さんが入ってきます。

水浴びもここでします。1階から水をいれたバケツをもってきて、体を洗います。流した水は2階のここから直接路地に排水されるので、ジェンネの路地を歩くときには頭上に気をつけないと、たまに水がどばっと降ってきます。

11,12. 部屋


ジェンネの家々は、どこからどこまでがひとつの家かわからないくらいひしめきあっています。この家も、私の部屋の北側の壁は、背中合わせに建っている別の家の壁になっています。8~12の部分もさらに別の家と
壁を共有しています。四方の壁をそれぞれ別のよその家と共有しているお宅もあります。家々が接近している、というよりも、家々が背中合わせ、お腹あわせにくっついていたり、食い込んでいたり。

家々が、人々が、ぎゅぅっと寄り合って、その間を毛細血管のように細い路地がくねくねと這っているジェンネの様は、時にわたしに気詰まりを感じさせもします。こんな密なところで、何か非難されるようなことをしようものなら、まぁ二度と住めないだろうな、というくらい、頑固な密度があります。

でもそれ以上に、この密な家々、人々、町並みに感じる安心感、生々しさに、魅力を感じます。

2009年3月10日火曜日

月曜日は定期市の日。


こんにちは。

先週、高熱をだしましたが、寝袋に包まってしっかり汗をかいたら、一晩でさがりました。慌しい日々で、ちょっと疲れていたようです。

さて、きょう月曜日は、ジェンネの定期市の日です。市はジェンネ語で「ヨブ」と言います。町のシンボルである大モスクの前の広場で開かれます。

月曜日には、魚、穀物、家畜、布、香辛料、服、靴、化粧品、伝統薬などなど、さまざまな品がジェンネの内外から大集合します。ジェンネだけでなく、周辺の町や村、隣国からも売り手・買い手がやってきて、たいへんな賑わいです。

人々があちこちから来ているので、値段交渉や挨拶で飛び交うことばも、ソンライ語、バンバラ語、フルベ語、フランス語など、実に多様です。皆、客が話しかけてきた言語によって、器用に使い分けます。

これらの言語には、小銭の金額を5の倍数で表現することが多いので、慣れないうえに算数の苦手な私は、難儀します。(例えば、ジェンネ語で「ワランカ・チンディ・グ(20と5)」は、ものの数を数えるときには25の意味ですが、値段の場合、25に5をかけた125CFAのことを指します。)

きょうは庭を掃くための小ぶりな手作り箒を買いました。40km離れたムニャ村から、箒とうちわを売りに来ていたおばさんから。知らない者同士でも、まずは「こんにちは、調子はどう?ご家族はお元気?」などと挨拶をかわしてから、値段交渉にはいります。お互いに、「ちょっと高くなぁい?」「そんなことないわよ。
じゃぁ、いくらなら買うのよ?」などとやりとりして、結局、250CFA(50円くらい)で買いました。妥当な値段に落ち着いたことに満足したのか、最後に彼女は、「こっちのほうが出来がいい。これを持っていきなさい」と言って、より仕上がりのきれいな箒を渡してくれました。

この定期市では、プロの商人でなくても、誰でも売り手になれます。なので、この日はジェンネの老若男女が売り子になります。子供たちも駆りだされるため、学校に生徒がさっぱり来ない。そこで10年ほど前から、ジェンネの学校は日・月がお休みになりました。よそは土・日が休みです。ジェンネでは、月曜日は学校より市、なのです。

市の日は、貴重な現金収入を得る日、たまの奮発するお買い物の日、子供がちょっと大人ぶって商売人になる日、普段会えない遠くに住む親類や友人に会える日です。

普段は閉鎖的な雰囲気すらかもしだしている静かな古都が、すこし若々しくなって、ふわっと花開く月曜日。

2009年3月6日金曜日

ジェンネ着。

首都バマコから、調査地のジェンネに移動してきました。

がたがた道をおんぼろバスで13時間の移動でした。1年ぶりのジェンネに着くと、大家さん一家やご近所さんが、「ミク・ゴ・カ!」(ジェンネ語で「ミクがやって来た!」)と駆け寄るように迎えてくれて、ちょっとほっとしました。

久しぶりに会った近所の女性たちには、言葉はすこしふさわしくないかもしれませんが、本当に「ぽろぽろとあふれ出るように生まれてくる」、と表現したくなるくらい、たくさんの新しい赤ちゃんが生まれていました。

マリの出生率の高さは、四方八方から聞こえてくる赤ん坊の泣き声を聞けば、統計をみずとも一目瞭然。50歳くらいでも、15歳くらいでも生みます。あっぱれお母さんです。(ちなみに、CIAのWorld fact bookによると、マリ共和国の人口増加率2.7%、一人の女性が産む子供7.34人、乳児死亡率は10%弱と高くなっています。)

にぎやかなニュースの一方で、お世話になった人が亡くなったという悲しいニュースもありました。同年代の女性だったので、ことさらショックでした。

いつのまにか、ぽろぽろと新しい赤ちゃんが生まれていたり、「男の子」だった子が、いっちょ前な「青年」になっていたり、ふと見渡してみると、もうここにはいない人がいたり。

そういうのを見るにつけ、まぁ当たり前のことですが、あくまで私はここではune passante、通りすがりの者、だと痛感します。

ジェンネにそれなりの人脈や一時の生活のベースはもっていても、しっかりとした根をもたない私が、ここでお世話になっている人や自分自身のために、一体なにができるのかな、などと考えたりします。(もちろん、まずはここでの調査をもとに博士論文を書くことですが…)

そういうことを考えて、ちょっと難しい顔をしていたのだと思います。大家さんちで家族とご飯を食べていると、「あら、ミク、もう日本の家族が恋しくなった?あっ、それとも彼氏か?」と、明るくからかわれました。

ケタケタと笑うみんなを見て、まぁ、あまりうだうだ考えず、できることをコツコツやっていこ、と思った次第です。

2009年3月4日水曜日

Chine au Mali

チャイナタウンは世界中のたくさんの都市にありますが、マリにも多くの人が中国からやってきています。

今回バマコを歩き回って、前回滞在した1年前より、目に見えて中国人が経営するお店(レストラン、雑貨・食料品店)、企業(大きな建築会社など)が増えたように思います。

バマコで泊まっているホテルのすぐ近くに、一軒の中華料理屋さんがあります。中国人のご一家が経営しています。その名も、「レストラン・パンダ」。なんて分かりやすい名前。手ごろな値段(500円くらい)で、多彩な本場の味が楽しめます。

マリの料理は大好きですが、せめてバマコにいる間は、ジェンネでは食べられない中華料理を食べたい!と、
ほぼ毎晩、パンダへ足を運びました。

食事するスペースは、晩には経営者一家のリビングにもなります。夕飯時に行けば必ず、6人くらいの皆さんがテーブルを囲んで、中国の衛星放送を見ながら晩ごはんを食べています。人の家のお茶の間におじゃましちゃった気分も楽しめます。

バマコ最終日にパンダに行ったところ、ご一家のリビング兼レストラン席で、にぎやかにカラオケ会が催されていました。いつも見る一家のほかに、店主の友人とおぼしき数人の男性も。

ちょっと疲れていたので、さすがに大音量のカラオケのなかで食事は…と思い、そこからは仕切られた席に座って、もりもりごはんを食べました。

聞こえてくるカラオケは、もちろん中国語の歌です。男性たちの歌声はどれもちょっと調子が外れていましたが、一曲だけ歌った奥さんの歌声は、高音が澄んでいてのびやかで、なかなか素敵なものでした。食事をする私の後ろで、拍手や歌い手をはやし立てる声が、賑やかに響きます。

お会計のときに、今まで話す機会のなかった奥さんが、ちょっと緊張気味に、たどたどしいフランス語で話しかけてきてくれました。40代後半くらいの女性です。

奥さん「歌を歌うのは、お好きですか?」
わたし「下手ですが、好きです。先ほど歌っていたのは奥さんですよね?とてもよかったです」
奥さん「あら、うふふ。あなたもどうぞ、歌っていってください。英語の歌や日本語の歌もありますよ。あなた、日本人でしょ?」
わたし「はい。ただ、今日はちょっと歌うのは…またの機会にします」
奥さん「いつでも歌いに来て下さいね。食事も、いつでもね。娘はフランス語、ちょっとしゃべれますから」

一家には、二十歳前くらいの、細身の美人な娘さんがいます。奥さんは私が行くといつも、にこっと笑って何か言いたそうにしていました。どうやら、一家団欒のとなりで毎回ひとりで食事しているわたしを、かわいそうに思い気遣ってくれていたようです。娘なら話し相手になるわよ、と言いたかったようです。

パンダからの帰り道。

彼女の気遣いがうれしかった一方で、10年前の私には思いも及ばなかった、「マリの街でひとりで食事をして、そこの中国人の奥さんに、フランス語で心配される」自分を思い、テレサ・テン『時の流れに身をまかせ』が頭から離れませんでした。

あのとき人類学を選んでなかったら、今頃なにをしてたのかしらん、と。

♪ もしもあなたと 出会わなければ
  わたしはなにを してたでしょうか
  あなたと違う だれかを愛し 
  普通の暮らし してたでしょうか ♪


さて、

増加する中国の人や資本を、よく思っていないマリ人の声もたびたび耳にします。つい先日も、ある布売りの女性が、「中国がマリのワックス・プリント(ロウケツ染め布)を真似て作って、『マリの布だ』って言ってあちこちで安く売ってるのよ。こっちはもっと上質のを売ってるのに、迷惑なもんだわ」と言っているのを聞きました。真相は分かりませんが、彼女がそう言いながら不満そうにしていたことは確かです。

また、低い賃金でマリの大工さんを工事現場で働かせている、といった噂とか、イスラームの国にやってきてあちこちにお酒を提供するバーを開設していることへの警戒なども強いようです。

一方で、独立後に社会主義をとり、東側諸国との関係が強かったマリには、中国に留学した経験をもつインテリの人もたくさんいます。民主化した今でも、中国との経済的なつながりは、両国の上層部がまめに行き来しているくらい密です。2月には胡錦濤が来マリして、首都のまんなかを流れるニジェール河にかける新しい橋の建設全額支援を申し出て帰っていきました。

数多くのマリ人商人も、中国でビジネスをしています。(この点は、国立民族学博物館の三島禎子先生の
ご研究に詳しいです)

これからマリと中国の関係は、どうなっていくのかしら、マリの中国人は、どうなっていくのかしらん、わたしは今回の調査でいい成果が得られるかしらん、嗚呼、さっきパンダでテレサ・テン歌っとけばよかった…

などなど、とりとめもなくいろんなことを考えた、首都バマコの夜でした。

2009年3月1日日曜日

バマコにて。

バマコでの様子をすこし書きます。

マリの首都バマコは、人口も100万を軽く超え、高層ビルもにょきにょきしている大都市ですが、近隣諸国の首都に比べてもかなり治安のよい街だと思います。ひとの気質も、総じてはっきりしていて、からっとした印象です。

昨日、街なかの大市場(通称マルシェ・ローズ)へ買い出しに行くことにしました。捕まえたタクシーの運転手さんは仏語が通じない人だったので、「スグバ(大市場)、ドゥグコノ(街なか)」とバンバラ語で行き先を伝えると、「OK、OK!」と頼もしい返事。でも、15分ほどぐんぐん飛ばすと、目的地へ行くには渡るはずのないニジェール川を渡ってしまいました。

わたし「あれ?行き先は街の中心にあるスグバですけど?」運転手「え、川向こうのスグバじゃないの?」
わたし「わたしが行きたいのは、マルシェ・ローズです」運転手「エッ、アッラー!※ 娘さんよ、私は川向こうの市場だと勘違いしてた。申し訳ないね。ちょっと待ってなさい、市場に行く乗り合いバスが通るはずだから、それに乗りなさい」

タクシーでそのまま戻ってもよかったのですが、どうやら運転手さんに来た道を戻る気はなさそう。彼は道ばたにいた見知らぬおじさんに、事情を説明しています。すると、説明を聞いたおじさんがすっと私の腕をとって、車が行き交う4車線の大通りを、器用に渡らせてくれます。

そして、やってきた乗り合いミニ・バス(スートラマ)を止めて乗せてくれました。ミニ・バスの若い車掌くんに「この子が大市場に行きたいそうだ」と言い伝えるのも忘れずに。おかげで、ミニ・バスが市場付近に着くと、車掌くんはわざわざバスを降りて、「このバスは市場までは行かないけど、あっちの方向に市場がある。見えるだろ?歩いてすぐだ」と示してくれます。

さらに、同じところでバスを降りた一見ぶっきらぼうなおばさんが、「私も市場に行くのよ」と独り言のように言いながら、さりげなく私を案内してくれます。おばさんは市場につくと、「じゃぁね、シノワ・ムソ(中国娘、私のこと)」と言い残し、去っていきました。


もちろんなかには冷たい人もいますが、マリの人には、こうした機敏な世話焼きさんが多いように思います。
気遣いの丁寧さや篤さでいえば、日本の人の方が断然上でしょう。でも、人を助けるときの「機動力」の高さ、軽やかさ、さっぱり感は、マリの人のとても素敵な優れたところだと思います。

誰かが困っていれば、助けられる人が、できる範囲でサクっと手伝う。それが普通だから、助けられたほうも、長々と謝辞を述べたりしません。「ありがとう」の一言で済み、さっきまでいた、にわかに結成された
お助け隊は、何事もなかったように散っていきます。

そんなマリの首都、バマコです。

※ マリ人の大半はムスリムなので、英仏のOh, my God!/Oh, mon Dieu!はEh, Allah!となり、「えっ!?あら!」という日本語の響きと似ています。面白いです。