2009年5月27日水曜日

クンバ姐さんの白い粉。




今日のお昼のこと。

長屋の左隣のクンバさんから、「ちょっと来な」と呼ばれました。すると小声で「これ、いる?」と、ひょうたんの器に入った"白い粉"を見せられました。

クンバは40前くらいの女性で、旦那、子ども3人、孫1人と暮らしています。息子たちに鬼のように厳しく、働き者の質素倹約で、どんなに高熱が出ても大怪我をしても一言も痛いとかしんどいと漏らさないような、
チョット気合のはいった女性です。前回の調査からお隣さんなので、かれこれ2年半の付き合いです。

彼女が稲光りの空を仁王立ちでキッと見上げながら、ハスキーな声で「ミク、じきに雨が来るよ。洗濯物、取り込みな…」とつぶやく姿などは、実にカッコイイ。(でも笑うと一気に人懐っこくて幼い感じになる。
そのギャップがまた魅力的です。)

そんなハードボイルドなクンバから見せられた、白い粉。粗めでキラキラしていて、小麦粉ではないことは分かります。ちょっとどきどきしながら、「…何、これ?」と聞くと、クンバはそれには答えず、娘のサーに「さっきのあれ、持っといで」と顎をクイっと上げて指示します。 どきどき。

娘のサーが部屋のなかから持ってきたのは、鍋についているお米のおこげ。サーが「これを粉にしたのよぉ」と、母に似ず甲高い声で説明してくれました。

あぁよかった。クンバの白い粉は、例のブツではなかった。いやぁ、まさかとは思ったけど、ちょっとびびったよ。この粉は、おこげを杵で搗いて粉にしたものでした。

ジェンネ語でお米のおこげは「クス・イジェ」。「鍋の子ども」の意味です。ご飯の時におこげは食べませんが、捨てずにとっておいて、子どもたちが小腹が空いたときなどのおやつにします。おせんべい感覚です。
焦げすぎたおこげは、いったん水でふやかして少し天日に干して、鶏や鴨にあげたりもします。

クンバの説明によると、このクス・イジェの粉を牛乳で溶いてお砂糖を加えるととてもおいしい、とのこと。たくさん搗いたからもっていけ、と。こちらの人は、温かくて甘いミルク粥を朝食や夜食としてよく食べます。「それと同じように作ればいいの?」と聞くと、この粉で作った場合、煮詰める必要はない、冷たいほうがむしろうまい、と。うん、たしかにおいしそう。

「いいねー、いるいる」と答えると、そんなに要らないよぅ、というくらいたっぷり私の器に入れてくれました。おこげの粉と分かっていても、やはりクンバが眉間にしわを寄せながらさらさらと注いでいると、どうしても別のブツに見えて仕方ないのですが。

ありがとう、と粉を手に去ろうとすると、クンバがどすのきいた低い声で一言。「…ミク、あんた、疲れてるでしょう。今年は特に暑いしね。あんた、ちょっと痩せたよ。これは冷たくしておいしいから、たくさん食べなよ。分かったね?」

彼女は前回の滞在から、ここの慣習も言葉も何も知らない私に、「チュバブは本当に何も知らないのね」と苦笑いしながらいろいろ教えてくれました。彼女はフランス語が一切話せないので、わたしがジェンネ語を少し身につけるまでは簡単な会話すらできなかったのに。それでもおかまいなしで、教えてくれました。

例えば、わたしがたどたどしく洗濯物を手洗いしていると、黙って私の手から洗濯物を奪ってシャカシャカ手際よく洗い、ギュゥと絞って最後に一言。「ミク、分かった?こうすんのよ。まぁ、がんばりな。くくくっ」
と乾いた短い笑いを残して去っていく。そういう、気遣いです。

今回も彼女は、夏バテで痩せた私に「どうしたの~?」などとは聞かない。黙ってクス・イジェを搗いて渡す。そしてひんやりレシピを教えて、たくさん食べろと、どすの聞いた声で念を押す。

クンバらしい気遣いがとてもうれしくて、少しこころが弱っていた私は、お部屋に戻ってちょっと泣きました。

嗚呼、クンバ姐さん。あなたはいつも、ビシっと厳しくて、さりげなくやさしくて、とてもカッコイイです。

2009年5月23日土曜日

C'est un cadeau empoisonné.

木曜の夜はけっこう高い熱が出て、家でうんうん唸っていました。すると、9人ものひとが訪ねてきました。まぁ私って人気者!と思いきや、それはお見舞いでなく、皆わたしに同じ質問をしにきたのでした。ある物を手に、「これ、なに?」という質問です。

皆が手に持っていたのは、小さなプラスチック製の容器。中には、どぎつい蛍光色の物体が。図工の授業で使った土色や白っぽい色のそれではなく、トイザラスで売ってるような(トイザラス行ったことないけど)ケミカルな感じの粘土でした。

皆さんの説明によると、私のとこにやって来た経緯はこう。

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きょう小学校で、チュバブ(白人)からのプレゼントだと言って、箱が配られた。低学年の生徒全員に一人一箱。子供が持ち帰ってきたので開けてみると、なかにはペンや絵本、小さな布などが入っていた。そのなかに、この謎の物体も入っていた。容器に何か書いてあるが、私は読めない(読めても英語なので分からない)。

家族や近所の人たちで「これはなんだろう」と考えたが、分からない。チューイングガムだとかお菓子だとか、布を染める染料じゃないかとか、皆いろいろ言う。

結局、「チュバブからのプレゼントなので、チュバブのミクならきっと知ってるだろう」ということになって、あなたのとこに聞きに来た。具合が悪いところごめんごめん。でもこれ、なぁに?
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あ、食べちゃだめ食べちゃだめ。

えっと、これは、チュバブの国の粘土です。あちらではこうして粘土に色をつけたりします。ジェンネの水辺の粘土と同じように、こねこねして好きな形にして遊んでください。くれぐれも、ガムではないんで食べちゃだめです。――と説明しました。

ひとまず皆さん、納得して帰っていかれました。「ほらやっぱり!息子はお菓子じゃないかって言い張ってたけど、私は最初から、チュバブの粘土じゃないかってピンときてたのよ!」と、勝ち誇った感じで帰っていくお母さんも。

箱ごと持ってきた人がいたので、見せてもらいました。箱は緑と赤のクリスマス・カラー。大人の靴を入れる箱くらいの大きさ。中に入っていたフランス語の絵本は『何より尊く偉大なお恵み』という仰々しいタイトル。カラフルな漫画で、聖書について説明しています。漫画の中の登場人物はすべて黒人として描かれているので、どうやらフランス語圏アフリカの子供向けに描かれたようです。本の作製フランス、印刷ドイツ、とあります。

そして箱には「2008年メリー・クリスマス☆」と書いてある。
…去年じゃん。

なんとなく事情がつかめました。

おそらく、ヨーロッパのキリスト教系の団体が、"恵まれない子供"のためのクリスマス・プレゼントとして、12月に配る予定だった。でもマリ側の責任者が手配をさぼったために、こんな微妙な時期に配られた。
もしくは、他所で配られた余り物が、なんらかのNGOやアソシエーションを通じて、今ごろになってマリのジェンネに回ってきた。

マリの事務仕事は、ひとつの用件にたくさんの人がちょこっとずつ携わって、そのわりに結局、最終判断はボスのご機嫌ひとつだから、とても遅い。(私はこれをひそかに、too much work/responsibility
sharing と呼ぶ)また、よく分からない余り物が"贈り物"とか"援助物資"として配られることも、マリではよくあることです。今回も、このどっちかだと私はふんでいる。

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それにしてもこのプレゼント、本当にここの子供を思うなら、要らない。与える側の自己満足でないの?と嫌味を言いたくなります。受け取る学校側の「もらえるもんはもらっとけ」根性も、どうかと思う。事前に精査して、要らないものは要らないって言えばいいのに。プレゼントを配布する時、この町選出の州議員――この間の選挙で見事に落選したけど――があいさつしたというから、そこらへんがかんでいて、町の教育委員会も、思考停止の言いなりだったのでしょう。

イスラーム学術都市の町にキリスト教のクリスマス・プレゼントだから不要だ、というわけではありません。
(マリのイスラームは、そこらへんはとてもおおらかで気持ちいいです。)そうでなくて、このプレゼントが明らかに役に立たないから、ここにはもっと必要なものがあるから、呆れちゃう。

マリの公教育は原則無料です。以前は基礎教育では文房具も必要最低限分無料で支給されていたそうですが、現在のジェンネでは、文具については生徒自身が用意しなくてはいけません。ジェンネには、ボールペン一本、ノート一冊買うお金を捻出するのもしんどい家族がたくさんいます。

今回贈られた箱は、重いし、だいぶかさばる。ジェンネの低学年全員分なら、千個以上送ってきたことになります。フランスから送られてきたのか首都バマコからなのかは知らないけれど、いずれにしてもこの送料と関わった人件費で、安い鉛筆が何千本買えるか。

――でもこれは私の考えすぎなのかしら…子供も親もこのプレゼントを結構喜んでるのかしら、とも一瞬思いましたが、やはり"要らないもの"だったことが、即座に判明。

翌日のプレゼントの行く末は、同情したくなるくらい無残でした。それぞれの事情を皆さんに聞いてみると、以下の通り。

絵本→そこらへんで砂まみれ
:書いてあるフランス語のレベルが、こちらの低学年児童には高すぎた。(フランス語ネイティブの子供のレベルじゃないと無理だと思う)なんの本かすら分からず、子供がそこらへんにぽいと捨てた。お母さんが拾って、薪に火をつけるときの紙に使っていました。

カラーペン→そこらへんで砂まみれ
:こちらは空気がとても乾燥しているので、インクが乾いていた。新品なのにすでに掠れている。だから子供、これもぽい。赤ちゃんが拾って、よだれまみれにして遊んでいました。
 
タオル→そこらへんで砂まみれ
:15cm四方くらいのミニタオル。ジェンネの人にハンカチで手を拭く習慣はなく(そんなことしなくてもすぐ乾く)、しかもここではタオルといえば男性が使うバスタオル。そのため子供は、この小さなふかふかした布が、携帯できるタオルだとは認識しなかった。子供、これもそこらへんにぽい。羊さんが拾って、食べられるのかしら?とはむはむしていました。

粘土→そこらへんで砂まみれ
:赤ちゃんの握りこぶしくらいの、つつましい大きさの粘土。彼らが遊びなれている自然の粘土からした少量だし、水を足してふにゃふにゃ度を調節することもできない。うまく成形できず、子供、すぐに飽きてぽい。
にわとりさんが拾って、食べられるのかしら?とツンツンしていまいた。

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つくづく、援助や支援て何なんだ、とため息まじりに思います。こんな"イタい"ケース、マリではたくさん見ます。(そしてたいていが、規模的にもっとアイタタタ。)与える側は与えることに、もらう側はもらうことに、どちらも甘えていると思う。皆が莫大な手間とお金をかけて、真顔で茶番を演じているとしか思えません。おそらく数ヶ月かけて準備されたものが、贈った翌日にゴミて…。

何が必要とされてるのか、どうすればいいのか、それをリサーチ・議論したうえで失敗したのなら、まだまし。でも、こんな思考停止のプレゼントなら、要らない。こんなパフォーマンスの援助なら、やめちまえぃ。

焼却炉のないジェンネの町に、数千片の土に還らないごみが増えただけでした。

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それにしても、よりによって粘土て…ジェンネのまわりは、粘土だらけなのに。というか、粘土しかないくらいなのに。あちこちに無残に打ち棄てられたサイケな蛍光色が、灰褐色の泥の町には、毒々しすぎるぜ。
                       

2009年5月21日木曜日

声に出して読みたいマリのことば。



数年前に、『声に出して読みたい日本語』というプチ・ナショナリズムとも形容される本がばか売れしましたが、それとは関係ありません。(余談:あれが一種の国語ナショナリズムかどうかの前に、あの本の著者・
斎藤孝の、絶対腹に一物ありそうな笑顔がすごく苦手なのは私だけか。)

きょうは、声に出して読みたいマリの言葉講座です。

ひとりの時は、よくこうして言葉についてつれづれなるままに思いをめぐらせ、元気をだします。…ってこう書くと暗い人みたいですが、けっこう愉しいよ。

さて、

こんな適当な断言をすると言語学者に怒られそうですが、マリの言葉には、繰り返すものが多いです。日本語にも多いと思いますが、同じくらい頻繁に耳にします。そうした言葉には、なんともかわいい響きが多いので、紹介します。あえてひらがなで書いてみたり。口にすると、どこか疲れが軽くなってほっとするのは、なぜでせう。

さぁみなさんも、声にだして読んでみよう。

***
〇 ふぉろふぉろ(バンバラ語)

昔、のこと。

「むかぁしむかし…」という昔話のはじまりは、「ふぉろふぉろ…」。この言葉が老人から発せられた途端に、ふぅっと物語の中に引き込まれます。ちなみにジェンネ語だと、昔話のはじまりは「ビサンテ…(
(昔…)」。繰り返しませんが、響きが硬質で、これはこれで好きです。

〇 どにどに(バンバラ語)/ もーそもーそ(ジェンネ語)

ちょっとずつ、ゆっくり、ぼちぼちの意味。

雑にガツガツ作業している若手の泥大工に、60歳くらいの棟梁が怒鳴ります。「だん・もーそもーそ!」(ゆっくりやれ!)。「もーそもーそ」という響きがあまりにやわらかくて、私には、親方が怒っているように聞こえません。

〇ぽとぽと(ジェンネ語)

地面がぬかるんでいる状態をさします。

日本語の「どろどろ」的な言葉です。たしかに、粒子が細かい粘土質の ジェンネの土は、水をたくさん含むと「ぽとぽと」になります。じょうずだわ 言い得て妙の オノマトペ。

〇むぬむぬ(バンバラ語)

(軸を中心にして)回る、の意味。

日本語の「くるくる」とほぼ一緒。むぬむぬ。いつもちょっと、言いにくい。しかも、いつも「むぬむぬ」だったか「ぬむぬむ」だったか分からなくなる。今もつい、辞書で確認しました。「む」が先っす。

〇とんとん(ジェンネ語)

加える、足す、増やす、の意味。

先日、顔見知りのおばちゃんの屋台でサツマイモのフライ(うまい!)を買ったら、「とんとんしといたから」と、コケティッシュなウインク付で言われました。とんとんの応用編です。おまけしといたわよ、ってことね。5本分25CF(25CFA=5円)買ったけど、8本入ってました。こっちの女性は、細かいお金に偏執的なくらいうるさいですが、そのわりに、親しくなるとやたら気前がいい。「とんとん」されたからには、常連にならなきゃです。彼女のあきない術に、まんまとはまりました。

〇そごそご(バンバラ語)、ことこと(ジェンネ語)

咳のことです。

日本語のコンコン、げほげほってな感じでしょうか。咳はバンバラ語でそごそご、飴はフランス語でボンボンなので、ミント味のすーすーするのど飴を、「そごそごぼんぼん」と呼びます。すごくいかついお兄さんが、「そごそごぼんぼん、5個くれ」とか言ってお店で飴ちゃんを買っていたりします。かわいい。

〇 ぽぉぽぉ(ジェンネ語)

睡蓮のこと。

増水期になると、町をとりまく水のなかに咲きます。この町は、木花の少ない荒野の乾燥地帯に、ぽつんと佇んでいます。長く厳しい乾季。暴力的な風と激しいスコールの雨季。そのあとに一気に、たった数日間で、黄土に緑の沼地がわーっと広がります。ぽぉぽぉも、美しく咲きはじめます。
 
長い時間ぐっと耐えて、ふわりと咲く。その可憐さとたくましさに、おおげさでなく、ほんとに涙がでます。
ジェンネに初めて来てこれを見たとき、ぽぉぽぉみたいになりたいなぁ、調査がんばろぅ、と思いました。 今も、目に焼きついたあの風景は、けっこう励みになってます。(今年のぽぉぽぉの季節は、まだ数ヶ月先です。)

***

どうですかね、マリの繰り返しことば。

声に出して読むと、嫌な上司のがなり声や、つらい恋の痛手、満員電車の息苦しさも、ちょっと遠ざかりましたかしらん。

写真:ふぉろふぉろ語りが得意な翁、コシナンタオさん。80すぎた今も、毎日7km離れた畑まで歩いて行って、一日中耕しています。小柄な体に似合わない大きくて分厚い手足に、彼の働き者っぷりがあらわれていて、尊敬します。

2009年5月18日月曜日

「チュバブ!」

またまた見知らぬ子供が、「チュバブ!(白人!)」と叫びながら、私に石やら枝やらを投げつけてきました。「おいこら!!」と追いかけるも、子供はこの町の迷路のような路地に逃げ込んでしまい、見つからず。

憤慨しながら家に戻る道すがら、これまた見知らぬ10代の女の子たちからチュバブ攻撃を受けます。「見て見てぇ、あのチュバブったら、お尻はぺちゃんこだし、醜いわね~!きゃっきゃ!」

まったく…私がジェンネ語を解さないと思って、好き勝手言いよってからに。もし私が「チュバブ」でなければ、彼女たちは見知らぬ年上の者を侮辱するようなこんな言葉は、決して言いません。

マリでも日本でも、売られた喧嘩はこちらに理があれば真正面から律儀にお買い上げの "漢"(オトコ)な私ですが、もはやその元気もなし。「あなたたちの言ったこと、分かってるわよ。わたしが醜くたって別にあんたの問題じゃないでしょ!?」と涙声を悟られないように返すのが精一杯。

とぼとぼ帰る私の背中に、「きゃぁ、聞こえちゃってたわ!あいつジェンネ語分かるんだぁ、ははは」という女の子たちの笑い声。――はぁ、もぅ、げんなり。

もちろんこうした失礼はごく一部の子供です。私にとてもよくしてくれる友人・家族・ご近所さんや、嫌がらせをする者を追い払ってくれる見知らぬ人たちもいます。でも、首都やほかの村では、こうした目に遭うことはまずありません。前回の調査以来、ジェンネでこうした理不尽な「チュバブ攻撃」を毎日のように味わいます。

外国人のわたしに限らず、よそからジェンネに来たマリ人も、よくこの町の子供の奔放さを嘆いています。ここの子供は躾がなってないのが多い、チュバブに対してやたら挑発的だ、と。本当にそう思います。私が「白人(チュバブ)」(ここでは黒くなければ基本的に"白人")であるということが、ここの子供にとってはなんだかとても、ちょっかいを出したくなる要素らしい。

まぁ、世界にはもちろん逆もあり、黒人やカラードの差別・排除は、残念ながらとても根強い。私がチュバブというだけで悪さをしてくるこの子供たちが、いつか"チュバブの国"に旅行や出稼ぎや留学で行くことがあっても、そんなひどい理不尽な思いをしませんように、と願うばかりです。(でも悲しいことに、実際はそれを避けては通れないくらい、黒人差別・ムスリム排除は"チュバブの国"で根強いのです。)つくづく、肌の色が違うってそんなにたいそうなことかぃね、と呆れます。

**

さて、愚痴ってばかりも無益なので、ちょっと記憶の回路を繋げてみる。そうして思索を展開して、ちょっと気持ちを鎮めてみる。――はて逆に、わたしが初めて「黒人さん」に会ったのはいつだろう。そして、私はそのときどう思っただろう、と。

やっぱり、驚きだったのは確かだったみたい。ハッキリ覚えていますから。いわゆる「外国人」と接したのも、それが最初じゃなかろうか。

小学校低学年のとき。たしか8つの時です。父が勤める会社に技術研修か何かで来ていたアフリカの男性を、
父が家に連れてきました。初めてテレビ以外で、しかも間近に「黒人さん」を見ました。肌の色よりも、肌とのコントラストでよりクッキリ見えたとても大きな目に、ちょっとびっくりしました。

その頃はアフリカの国名なんて知らないから、どこの国の人だったか。まだお兄さんという感じの年の頃の人。背がとても高い人だった気もしますが、うちの家族が全員小柄で、うちが狭い社宅だったら、そう思えただけなのかもしれません。

5歳上の長兄が、しきりに照れながら、学校で習いたての英語で「えっと、My name is...., I'm junior high-school student.」とか自己紹介していて、『うわぁ、りゅま君、すごい。えいごしゃべれるんや!』と感心したのを、覚えています。お兄さんは、それをニコニコと「上手だね」とか何とかいいながら、聞いていました。

次にそのアフリカのお兄さんは、ご家族の写真をみせながら、これが嫁さんで、娘で、家の前で撮った写真で…とか説明します。言葉が思うように通じないことや遠慮もあったのでしょうが、お兄さんは物腰柔らかく、穏かな印象でした。

お兄さん、まだ赤ちゃんだった私の妹を、ながーい足でかいたあぐらに乗せてあやしています。高い高いしたり、べろべろばぁしたり。『ほぅほぅ、がいじんさんも赤ちゃんのあやしかたはいっしょなんやねぇ』
と思ったのも、覚えています。

ふと私は、お兄さんの手のひらに釘付けになりました。手の甲はからだのほかの部分と同じく黒いのに、手のひらは"肌色"。『あれ?ここだけわたしたちと同じ色や…』しげしげと見て確認してみたかったけど、人の手をガッと掴んでじろじろ見るのは失礼かな、と子供ながらに思ったし、かといって「手を見せてください」と英語で言えないので、お兄さんの大きなあぐらにちんまり座っている妹を一緒にあやすふりをして、手を観察しました。チラ見です。

『あ、やっぱり、手のひらは白い。あ、よく見ると、足の裏も白い。ほかは黒いのに、なんでやろぅ?なんでここだけ白いっちゃろぅか?』

お兄さん、さすがに私の不審な視線に気づいたよう。「ん?お嬢ちゃん、どうしたの?」という感じで、目をくりっとさせて、わたしの顔を覗きこんできました。『あ、いま聞いてみようかな。でもわたし、にほんごしかしゃべれんし…』と、ちょっと緊張しました。

――ミクちゃん8歳。
その頃は、メラニン色素の生成とか、その体表での分布がどうとか、もちろん何も知りません。

お兄さんが帰るまでとにかくずっと、手の裏表の白黒がなぜだか知りたくて、でもお兄さんに直接たずねる言語能力はもちあわせていなくて、気になりっぱなしでした。

次の日、学校の先生に事情を説明して、尋ねてみました。その頃はいじらしくも、先生はなんでも知っている、と思っていた。「せんせい、なんでですか?」そしたら、退職直前のベテランおばちゃん先生は、こう答えました。「手のひらや足のうらは、あまり日にあたらないでしょ?だからよ」。

『えぇー?でもそしたら、耳のあなの中も白いはずやん!せんせい、おにいさんの耳のなかはくろかったですよ!』と思いましたが、なんとなく、さすがの先生もそれ以上は知らないような気がして黙っていました。

**

あのお兄さん、元気かなー。

あれから20年あまり。こう考えると、まぁ、ジェンネの子供がチュバブのわたしにちょっかいを出してくるのも、彼らなりの好奇心の現れなのでしょう。その表出の仕方が、わたしが子供の頃のようには控えめでない、ということなのでしょう。

…と、オトナっぽく納得してみるも、

じゃぁここの子供はなぜ「控えめでない」んだ?それはやっぱり地域や親の躾の問題なのでは?子供を甘やかしてはいかんよ、肌の色で態度を変えるようなracistな子供を育てちゃいかんよ、と、結局、怒り再燃。

**

10代の頃は、オトナになれば腹が立つこと、憤ることも少なくなると思っていましたが、むしろ逆なのね。
年とともにいくら丸くなっても、それ以上に世の中の理不尽なことや醜いことが見えるようになって、腹立たしいこと、目下増加中。

このままだと、アナーキーな怒れるおばあさんになっちゃいそうです。
アナーキー高齢者…まぁそれもカッコイイかも。

2009年5月16日土曜日

ウォクラとの遭遇。



わたし先日、とうとう見てしまいました、ウォクラを。

ジェンネでは、"精霊"や"悪霊"の存在が強く信じられています。イスラーム世界の悪しき精霊「ジン」もそのひとつ。ジンにまつわる話は、今もジェンネのあちこちで聞かれます。(こうした精霊譚はとても面白いのですが、調査で得られた企業秘密なので、今は内緒。いつか論文に書くと思います)

そしてジェンネでは、ジンとは別に、「ウォクラ」とか「ワクラ」と呼ばれる存在についても、よく語られます。

ジェンネの人々にとってウォクラやジンは、人がそこに存在するように、木がそこに生えているように、"存在する"ものです。「そういう精霊の存在を信じている/信じていない」といった表現では、不正確なように思います。だって、ここの人にとっては、普通に"いる"のですから。

ジェンネの皆さんによると――

人や動物に化けないかぎり人間の目には見えないジンと違って、ウォクラは常に人の形をしている。では人間とどこが違うのか?小さい。3歳とか5歳とか、それくらいの子供の背丈。でも、子供ではない。しわがあったりひげが生えていたりして、普通に会話もできる、いわゆる「こびと」、とのこと。

先日も、ウォクラについてあるおじさんに話を聞いたところでした。

「あの、ウォクラって、今もいるんですかね?」「えぇっ!? お前、まだ見たことないのか? いるよ、もちろん。夜に川辺のほうをみやると、ちらほらと松明の灯が見えるだろ?あっちの方向に民家はない。夜中に町の外を歩き回る人間もいない。あれはウォクラが灯している火だ。あそこに彼らは棲んでいる」

ウォクラは、人間を襲って狂人・廃人にしたり、死に至らしめると言われるジンほど、悪いことはしない、と言います。けれど、夜に町をうろついては、人に喧嘩をしかけてきたり、野生動物や家畜を殺したり、人を勝手にワープさせておちょくったりしているそうです。けっこうワルです。

昔に比べてその数は減ってきたとも言われますが、ウォクラやジンの存在は、"おじいさんおばあさんのお話"ではありません。私と同年代の若い人も、こう言います。

「真夜中に、子供が一人で路地をうろついているのが窓から見えた。『おいおいどこの親だ?こんな夜中に子供を出歩かせてるのは』と言いながら灯りを当てると…それは子供ではなくウォクラだったんだよ!」
 
彼らが嘘をついているとか、外国人の私を皆してからかってるとか、そういうふうに疑っていたわけではありません。それでもやはり、誰もが「いるよぉ、うじゃうじゃいる!」と断言するわりに、じゃぁどんな顔をしている?服は着ている?何語で話す?と尋ねると、「…それは知らない。でもいる。だって見たもん」とか
「見えなくたって、いるのは分かる。だっているんだから」などと言われると、精霊が「いる」「存在する」ってどういうことなんだろう?と思ったり。

さて、そんな興味深いウォクラのお話を聞いたその夜、いつものように屋上にござを敷いて眠りました。

ひんやりした風がそよそよ吹いて、心地よい朧月夜。でも、いろいろ考え事をしていたらなかなか寝付けない。枕元の腕時計を見やると、あぁ、もう2時だぁ、明日も早いのに…。

しばらくして、ようやくうつらうつらし始めたとき、カサ、カサカサっという音が。ここにはネズミがけっこういます。はじめはその物音だと思いました。なので、いつものように追い払おうと、メガネをかけ、手元の小石を投げつけようとしたら…

――なんかいる! 子供だ。

正確に言うと、子供大のシルエット。私の正面2mくらいのところに、不自然にくっきりとした黒い影が見えました。うわっ!とびっくりして、全身がビクンとしました。

でもそれでも私は、まだすこし寝ぼけています。その背丈から、とっさに同じ長屋の4歳児アナちゃんだと思いました。だから、「アナ、ノー ダン マ ネ?」(アナ、ここで何してんの?)と、その黒い影に聞きました。

でも、返答はなし。

その華奢で小柄なシルエットは、微動だにせず、黙ってじぃと私を見つめています。表情は見えないけど、なぜだかこちらを凝視していることは、はっきり分かるのです。

あれ?アナちゃんじゃない…。気味が悪くて、心臓がドクドクドクドクしてきました。これ、なんだ? やだなぁ、なんだこれ…。

するとそのシルエットはサッと消えて、今度はなぜか、日本のある知り合いの姿が見えました。げげっ、生き霊!でもそれも、私のほうをねっとりと数秒間見やって、すっと消えました。その人が聞きなれた独特の間で歩く、カッカッカという足音だけが、耳に残りました。

ほんとうに不気味で恐かった。久しぶりに、心臓ばっくばく。その夜は、まったく眠れませんでした。


ウォクラの話を聞いた日だったから、夢でもみたのだと思います。――と言って片付けるには、あまりにリアルでした。あの子供の背丈の漆黒のシルエットも、そこに立っていた知り合いの姿も。少なくとも、夢ではなかったように思います。

翌朝、念のためアナちゃんに聞いてみました。「ねぇねぇアナ、昨日の夜、屋上に来た?」「ううん、いってないよ~。…なんでぇ?」

うわー…やっぱりウォクラだった可能性大だな…。

すいません、ウォクラの皆さん。「存在する」んですね、あなたたち。もう分かったから、わたしんとこには来ないでください。まじで、怖いっす。

写真:ジンの住処といわれるある場所からジェンネの町を望む。町から2kmほどで、増水期にはカヌーでしか行けません。増水期にはこうして緑の水辺にお花が咲いていたりして、なかなか素敵なところです。

2009年5月13日水曜日

Buffalo Soldier 




先日5月11日はボブ・マーリーの命日でした。亡くなったのは1981 年のこの日。享年36歳。若い。

なぜ彼の命日を知っているかというと、ここマリでも彼の人気は根強く、若者も年配の人も、「あ、今日は命日だね」などと話しているからです。「アフリカ」を愛したボブ・マーリー、今でもここで愛されてます。
(マリの発音だと、ボブ・マーレーです。)11日夕方には、マリの国営放送が生前のライブ映像を放送。ジェンネでも、若者たちが夜にあちこちでボブ・マーリー・ナイトを開催。

ボブ・マーリーは、天才だと思います。

前回の調査で、ジェンネのある老人が、植民地時代の話をしてくれました。彼の話題は、第二次世界大戦に及びました。

大戦当時のマリは、フランス植民地支配下。フランスはフランス本国だけでなく、こうした植民地からも、
たくさんの兵士を世界各地の戦地に送りこみました。(フランスだけでなく、日本もこういった横暴をしてきましたが。)ジェンネからも、多くの男性が戦地に送られたといいます。

老人は、白内障気味の白っぽい目でじぃとこちらを見て話します。

「ある日、フランス人から『さぁお前、戦争に行け』と命令がくる。徴集された人の家族は泣き明かしたものだ。戦争にかりだされるということは、もう二度と戻ってこないということ。こんな悲しいことはない。戻ってくるとしたって、一体いつだい?そのあいだ、誰が家族を食わせるんだい? 皆、おいおい泣いたよ…」
  
ある日突然攻撃してきて自分たちを支配しはじめた、見知らぬ「お国」のために、戦争にかりだされる。理不尽きわまりない話。

ボブ・マーレーのBuffalo Soldierも、アフリカからの奴隷交易と奴隷やその子孫がかりだされた戦争を歌っています。"水牛兵士"は、アフリカから連行され、戦争にかりだされ、上の話と同じく理不尽な運命を背負わされた人々のこと。(歌詞は一部抜粋。分かりやすくするため直訳。変な訳でごめんなさい)

*   
Buffalo soldier, dreadlock rasta
There was a buffalo soldier in the heart of America
Stolen from Africa, brought to America
Fighting on arrival, fighting for survival
He was a buffalo soldier in the war for America
              
バッファロー・ソルジャー ドレッドヘアのラスタ
バッファロー・ソルジャーがいた アメリカのど真ん中に
アフリカから盗まれて アメリカに連れてこられて
着くなり戦った 生き延びるため戦った
彼はバッファロー・ソルジャー アメリカのための戦争に参加した

*

こんなにシンプルでさらっと韻を踏んだことばに、何十年、何百年の、アフリカから連れてこられた人たちの
苦悩や歴史を込められるなんて、実に巧み。この歌詞、戦争や奴隷貿易の悲惨さを具体的に語ってはいません。平らな言葉で歌っているけど、その"具体"を実際に経験した人、後に学んだ人、そして何も知らない人にすら、なにかを伝える。しかもそのメロディに重々しさなどひとつもなく、こんなに軽快で、それゆえにどこかカラリと哀しい。

この歌のメッセージはさらに、それを歌うボブ・マーレー自身が創造し、そのなかに生きた"ラスタの物語"によって、増幅されています。物語をもたない人が、musicとしてでなく政治的メッセージしてこの言葉を口にしても、きっと表面的で胡散臭いものになるでしょう。

ドレッドヘアなボブ・マーレー・ファンに「なにを今さら」と怒られそうですが、いやぁ、つくづく、彼は天才だな、と思います。音楽ってかっこいいよな、と思います。と同時に、果たして私のやっている人類学・民族誌は、彼のように何かを伝えることができるのかな、と考えたりします。

彼が、平易で普遍的な言葉とカッコいいリズムのなかに、たくさんの人々の個別的な意志や苦悩を込めたのとは逆に、民族誌は、個別的な語りや描写のなかに、普遍が込められているべきだと思います。そして研究者の内だけでなく、そこに描かれた、またそれに触れた人々のあいだでの、対話や議論の踏み台、仲介役になれれば理想だと思います。

それが、どこにいても何となくこなれた感じで馴染めて、と同時に、どこにいても何となく、でも強烈な居心地の悪さと違和感があって、だから、それらの境界にいてこそなんぼの人類学を、人生逃げ腰気味に選んだわたしが役立てる、唯一のことなのかな、と思います。

でも、じゃぁ、どうすればいいのかしらん。(嗚呼、「まずはさっさといい論文を書け」という先生方の声が聞こえるよ。)

あの老人が「博士号とか論文とかいう話はよく分からんが、あんたの勉強のためになるなら協力するよ」と言って聞かせてくれた、ジェンネの或るbuffalo soldierの物語を、わたしは、これから書く民族誌にどう活かせるのかしらん。

そんなことを考えた、ボブ・マーレーの命日でした。うまくまとまってない、混沌とした文章でごめんなさいよ。

Buffalo Soldier

2009年5月9日土曜日

フットボール狂詩曲。



こんにちは。

町の見知らぬ小僧に、憤懣やるかたない意地悪をされ、怪我しました。おかげで身体的にも精神的にも満身創痍ですが、まぁ長い人生、こういうシビアな時もあるのでせう。人類学のフィールドワークも、ある意味「修業」だと思って踏ん張るしかありません。嗚呼。

   ***

さて、きょうは世界中で愛されるサッカーの話。

マリも例外ではなく、サッカーは大人気。「フット」、もしくは仏語のボールの意味から「バロン」と呼ばれます。ジェンネのような小さな街にも各町内にチームがあり、しばしば対抗試合も行われています。町の中心のモスク前広場でも、男の子たちがペットボトルをボール代わりに遊んでいます。

サッカー好きは、子供や若い男の子だけではありません。おじさん世代も、サッカー大好き。電気のあるジェンネでは、テレビで試合観戦もできます。マリ国内の試合も中継されますが、やはり一番盛り上がるのは、
レアルマドリッド対リバプールなどの、欧州の有名どころの対戦。そうした試合は、マリで唯一のテレビ局(国営)も奮発して生中継。

欧州では、たくさんのマリ出身、もしくはマリから欧州へ渡った移民の息子世代の選手が活躍しています。
たとえば、マリ出身の選手には、セイドゥ・ケイタ(バルセロナ)やアマドゥ・ジャラ(レアル・マドリッド)がいます。セビージャ(スペイン)のカヌーテやユベントス(イタリア)のシソコは、生まれも育ちもフランスですが、マリ移民第二世代で、マリ代表選手でもあります。マリ人のおじさんいわく「親戚の子みたいなもん」(なのか?)であるこうした選手の活躍を見ることも、楽しみのひとつのようです。

先週も欧州のチャンピオンズ・リーグの試合が生中継されていました。欧州とは時差がほとんどないので、生中継はいわゆるゴールデンタイム。普段は大人気の連続ドラマ(ブラジル製)があっている夜7時ごろ。ジェンネでは数軒に1台しかテレビがないので、家にテレビがないお隣さんたちも集まってきます。

サッカーに興味はなく、連続ドラマで繰り広げられるラテンな男女の愛憎劇のほうが気になる女性陣は、「Foot en direct」(サッカー生中継)という文字が画面に出た途端に、チッと舌打ちをしながらさっさとテレビの前から散りました。残ったのは、大家さんとその友人であるおじさんたち、そして近所の男の子たち(と、それを隅っこで観察する私)。

惜しい場面やファイン・プレーがあると、普段は家長の威厳たっぷりの大家さん55歳が、「きゃぁ!」「ほぅっ!」と興奮の奇声を発して、ちょっと微笑ましい。大家さんの友達であるおじさま連中も、テレビに向かって監督ばりに檄を飛ばしています。

「ヘイヘイヘーイ、ビササ~ぁ!」(おいおいおーい、パスしろよ~ぉ!)
「ビュビュッ!モルチーノ、ジャーリ!」(シュート決めろ!ほら今だ!)

大好きな連続ドラマがサッカー中継で中止になったので、いつもはドラマ後におこなう夜の礼拝をすでに済ませた奥さんが、やや不機嫌そうにテレビの前に戻ってきました。「ちょっとぉ、あなたたち、お祈りもしないでフット?もう礼拝の時間よ」…しかしおじさんたち聞く耳持たず、嫁の小言も完全無視。

前半戦が終わり、おじさんたちは「あそこであのシュートを決めないとだめだよな」「今日のトゥーレはどうも冴えてないね」などとひとしきり前半戦を振り返った後、ようやく礼拝のため奥の部屋に向かいます。
その間テレビでは、イスラームではご法度のビール・ハイネケンのCMが元気よく流れつづけます。この対戦のスポンサーのようです。

大家さんは心なしかいつもより迅速に礼拝をすませて、いそいそとテレビの前に戻ってきました。

――嗚呼、フットボール狂詩曲。

サッカーにあまり詳しくない私には、サッカーそのものよりも、いい年して振り回されて、いつもはぴっちり行うアッラーへの礼拝の時間もちょっぴりずらしちゃう、そんなおじさんたちの意外なゆるさと憎めなさが、実に興味深かったです。

まぁ何だかんだ言って1日5回の礼拝は欠かさないのですから、彼らの神様も、苦笑いしながら許してくれてはると思います。

2009年5月4日月曜日

ラヴ・ゴイ。




ここ数日、夕方に砂嵐がやってきます。激しい風が、家のなかにまで砂を運んできます。あと一ヶ月もすれば、この砂嵐の直後に大雨が降り始める雨季です。ようやく箒で部屋の砂を掃きだしたと一息ついた途端につぎの砂嵐がやってきてりして、徒労感のなか、阿部公房『砂の女』の不気味に静謐な世界観を思い出したりします。

さて、突然ですが、ジェンネの家々はすべて泥でできているので、毎年ののメンテナンスがとても大事です。
激しい雨が家のなかに漏れてこないように、雨季の前に建物の壁や屋上、外階段などを泥でしっくい塗りします。

雨季はあと1ヶ月ほどでやってくるので、乾季のピークの今が塗り直しの時期。こうした作業を、ラヴ・ゴイといいます。ラヴはもちろんloveではなく、ジェンネ語で「泥」の意味。ゴイは「仕事、作業」。泥仕事です。

私が住んでいる長屋も、きのう塗り直しがおこなわれました。プロの泥大工さんに依頼すると高いので、大家さんは人件費を削減。自分の息子たちに塗り直しを命じました。息子やその友達ち、50度近い暑さの中の作業ですが、泥を投げあっこしてじゃれたり、お気に入りのラップ音楽を大音量でかけたりしながら、ずいぶん楽しそうに作業しています。

彼らはプロの泥大工ではないのですが、なかなか上手に仕上げていきます。ジェンネの男性は、プロでなくてもたいていの人がこの作業をできます。しかも上手に。子供たちは小さいころから泥を川べりからとってきて
粘土遊びしたり、小遣い稼ぎに泥大工の泥運びを手伝ったり、こうして親に言われて塗り直しのお手伝いをしたりしているので、泥の扱いには慣れているのです。

たいていの博多っ子が旨い豚骨ラーメンを作れるわけでも、たいていの静岡っ子が上手に茶摘みをできるわけでもないのですから、たいていのジェンネっ子の泥扱いの巧みさは、特別だと思います。

この町そのものが泥でできているので、当然といえば当然かもしれません。

泥は、彼らの町ジェンネそのもの。
彼らの町ジェンネは、泥そのもの。

2009年5月3日日曜日

スマヤのほうが…。豚インフル、マリの場合。

世界は豚で大騒ぎのようですが、ジェンネではほんとんどの人が、豚インフルエンザのことを知りません。

お昼のニュースで、豚インフルエンザを伝えるニュースが流れました。これがマリのテレビで私が最初に見た、豚インフル関連のニュースです。でも扱い方は完全に「外国で大変」というもの。しかも1分足らず。
皆さん気をつけましょうね、というようなコメントもなしです。

それを近所の皆さんと見ていました。子供も大人もマスクをしている電車内の映像や、実験室みたいなところでワクチンを扱っている白衣の人の映像を見て、フランス語を解さない人たちも、なにやら物々しい雰囲気を感じたようです。その場にいた、学校の先生をしているあるお兄さんに、説明を求めています。「どうしたのさ?この人たち」

お兄さんはかみくだいてジェンネ語で説明します。やおら近所のお兄さんから「教師」の口調に変わりました。

「白人の国でね、豚の風邪が広まっていて、大変なんだ。死んでしまう病気なので、ああやって布をあてて、
 病気が入ってこないようにしているんだね」

それを聞いた人々は口々に、「あぁ、あの人たちは豚を食べるからねぇ」「そうねぇ、食べなきゃいいのにねぇ」。マリはムスリム90%の国。豚肉を食べません。いやいや…、とお兄さんが得意げに付け加えます。

「豚を食べたらうつるだけじゃなくて、人から人にうつるから、大変だと言っている。スマヤ(マラリア)みたいなもんだ。蚊から私たちにうつるだろう?そして、人から人に移るだろう?」

皆、ふぅ~ん、あ~、と頷いて納得しています。若先生、お上手。世界のニュースを、人々にとって身近なもので例えて説明します。そのうち一人の奥さんが質問します。「そういうことねぇ…で、それで何人亡くなったって?」 そこでお兄さんが、ちょっと申し訳なさそうに答えます。

「…数人だって。今のところ」

すると、おとなしい生徒然としていた奥さん方が、一気にざわめき始めました。本当に、スイッチが入ったみたいに。

「何人かですって!」「それでわざわざテレビで流れるのぉ?」「ジェンネで、スマヤ(マラリア)で毎年何人の子供が死ぬと思ってるのよ!?」「まったく、チュバブ(白人)は…」「シダ(エイズ)だってそうよ?
白人が来てずいぶんお金かけてキャンペーンしてるけど、あんた、 まわりでシダで死んだ人知ってる?ここにはいないじゃないの!」「そうよ、だったらスマヤを防ぐ蚊帳をただで配ったらいいのに!」

などなど。喧々諤々です。

正確に言えば豚インフルエンザは大流行の危険が高いから防いでいる、ということなのですが、彼女たちにとっては、今テレビを見ながらおっぱいをあげているこの子たちをマラリアで失う危険のほうが、よっぽどヴィヴィッド。しかもその確率は、けっこう高いのです。ジェンネで限られた人間関係しかない私のまわりでも、お年寄りを除いて、ここ2年ですでに5人(うち赤ちゃん3人、2人は20代と30代)の知り合いがマラリアで亡くなっています。

豚インフルエンザがたいしたことない、と言いたいのではありません。死者の数だけで病気の深刻さをはかっているのでもありません。このニュースを説明されて議論を始めた彼女たちが得た情報は、もちろん、完全なものではないし、誤解もあります。(確か、豚フルでの死者は100人以上です。)世界遺産のジェンネには世界中を旅しつくしたような外国人観光客がたくさんやってくるので、ここにいたって、油断は禁物といえば
そうなのかもしれません。

でも、ここマリの田舎ジェンネで豚インフルエンザのニュースを見ていると、「世界」との強烈な温度差を感じます。その温度差は、なんだか色々なものが"行過ぎて"しまった、過剰になってしまった、その結果逆に脆弱になってしまった、そんな「世界」を、すこし哀しく、滑稽にすら見せます。

激しい議論を続けている奥さんたちの大声のなか、その大声で目が覚めて泣きだした赤ちゃんを、おぉよしよしとあやしながら、ひとりでそんなことを考えていました。

ここでの豚インフルエンザは、そういう感じです。