2009年9月30日水曜日

商売熱心、研究熱心。

比較的過ごしやすい雨季のはずなのに、雨がさっぱり降らず、とても暑い毎日がつづいています。寝苦しいので、皆さん寝不足気味。わたしもどうもふらふら。マリの南部や西アフリカの沿岸部は、大雨のためあちこちが浸水して、ひどいところは洪水になっているそうですが。その雨をちょっとこちらにも降らせておくれ、神さまよ。

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ある商売熱心な友だちのはなし。

ジェンネの友だちに、ファトゥマタという女性がいます。ジェンネに来たことのある観光客の方なら、もれなくこのファトゥマタに「つかまった」ことがあるのではないかと思います。彼女は、外国人観光客向けにおみやげを売っています。店は構えておらず、自作のアクセサーを入れた盆を頭に載せ、観光客のいそうな場所に出没しては、(けっこう強引に、けっこうなお値段で)商品を売りまわっています。

わたしもジェンネに来てすぐは、彼女のターゲットになりました。「わたし観光客じゃないんですよ。買わないって言ってるでしょ?」「買えとは言ってないじゃないの! 見るだけでも見てみなよ! ほら、これなんてあなたに似合うんじゃない?」「そんなこと言って、買うまで離さないんでしょ!?」などと、毎回互いに喧嘩腰。この道15年という彼女の執念深さ、まさに蛇のごとし。頭にはアクセサリー、背中には赤ちゃんという勇ましい姿で、1時間でも2時間でも追いかけてきます。

当初はそんな険悪な雰囲気だった私たちも、今ではお友達です。わたしは意地でも買わない、ファトゥマタもそれを分かっていながら生活のために一切引き下がらない、という毎回のお決まりパターンに、5回目くらいで、互いに「ふぅ…おぬしもしぶといのぅ!」という感じの、妙な連帯感がめばえました。ふと「まったくあなたってカラバンチ(頑固、強情)ねぇ…」と彼女が笑いながら言い、わたしが「いやいや、あなたには負けるね。ところで今さらだけど、あなたのお名前は?」という会話が、お友達になったきっかけ。

その後は、彼女のわたしに対する商売っけはすっかりなくなり、おうちに招待してくれたり、売れ残った商品をプレゼントしてくれたり。それでも未だに、彼女につかまってしまった観光客を見かけると、『頑張って…!』と、彼女ではなく客のほうを応援せざるを得ません。それくらいしつこい、いや、たいへん商売熱心なのです。生活かかってますから。

そんな熱心な彼女から、先月、ある相談を受けました。「どうも最近、アクセサリーの売れ行きが悪い。ミクはチュバブだから、チュバブの観光客たちがどうしてこれを買わないのか、分かるかもしれない。どうしたらいいと思う?」と。

彼女のつくるアクセサリーは、なかなかかわいい。ビーズ・ネックレスは特に、女性らしい華やかさがあってうまいなぁ、と思います。でも、以前から気になる点がふたつ。素人がひとの商売に口だしするのははばかられるけど、助言を求められたので、思い切ってそれを伝えてみました。

ひとつは値段。マリの商売では値切りが常識です。相場や底値はありますが、値段が決まっているのは、砂糖やパン、油などのごく一部の商品のみ。市場や道端での売り買いは、交渉によって値が変わります。売り手はまず高い値段を提示して、買い手は低い値段を提示。そして互いに合意できる値段に歩み寄っていきます。こんな感じで。

「これが売れないと、明日からの米を買えないのよ。3000で買いなよ」「おたくの米事情なんて知らないわ。こっちもそんなお金はないの。1000でなら買うけど」「1000 !? そんな安値は無理。こっちだって5時間かけて作ったのよ? 仕方ない…500値引きしてあげる」「2500ってこと!? 全然値引いてないじゃない!…仕方ない、1500までなら譲ろう」「え~ぇ、1500~ぅ?」「そこまで下がらないなら買わない。もう帰ります。ばいばい」「あ!ちょっと待ちなよ! …2250でなら売れないこともないわね」「もう一声」「仕方ない、今日は特別よ。2000でいいわ」「…2000ね、悪くない、買った。」

ここまで読まれてお気づきかと思いますが、つまりは面倒なのです。書いて再現しながら面倒な気分になったくらい。元気なときにはこうした交渉も楽しいけど、疲れているときや急いでいるときに、40度の気温のもとでこれを繰り広げるのは、ちょっと大変。値札や定価に慣れている外国人観光客相手にこの戦法では、うまくいかないのではないかと思うのです。外国人の皆さん、特に年配の方々は、高めの値段を吹っかけられた最初の時点で戦意喪失・即時撤退。たまに「ふっかけやがって!」と猛烈に怒りだす人もいます。でもファトゥマタは、律儀にも? 外国人観光客に対していつもこの値下げ交渉戦術をとります。

というわけで、ファトゥマタへの「チュバブのミク」からのひとつめのアドバイスは、「定価を設定する必要はないと思うけど、あまり高すぎる値段から交渉を始めないほうがいいのでは」ということ。「特に年配の観光客を長いこと引き止めないほうがいい。彼らはあなたが思っている以上に暑さに弱い。彼らのやけどのように赤くなった肌と、疲れきったあの表情を見てごらんよ。それにチュバブは値札のない商品や値段交渉に慣れていない」。彼女は、「チュバブの国の商品には、全部値札がついてるの?」と驚きつつ、「なるほどね、分かった」とうなづいてくれました。(しぶとさが売りの彼女なので、このアドバイスを実践しているかどうかは知りません。)

ふたつめは、彼女が作るアクセサリーの色。マリの人は、マリの国旗の色が好き。服やアクセサリー、舟や自転車、食器のペイントにまで、好んで用いられます。その色は、赤・緑・黄のいわゆる「ラスタ・カラー」です。日本だとこの三色の組み合わせは、よほどレゲエ好きの少しはじけたお兄さんの服装などでしか見かけませんが、こちらではいたってポピュラーな組み合わせ。

ファトゥマタも例にもれず、よくこの三色を商品に用いています。そりゃ、買うほうも買いづらいわな。自分の国――フランス、スペイン、イタリア、ドイツ、アメリカからの観光客が多い――に帰って、赤・緑・黄が一堂に会したブレスレットをつける機会は、そうないと思います。マリ旅行帰りのお母さんがこのブレスレットをつけていようものなら、パリジェンヌの娘は「ママン、それ、全然イケてないわ」と一蹴すること必至。

というわけで、 ファトゥマタへの「チュバブのミク」からのふたつめのアドバイスは、「チュバブは色がシンプルなほうを好む。たとえばひとつのブレスレットに一色、せいぜい二色」ということ。彼女は、「でもさぁ、赤・緑・黄ってキレイでしょ?」と渋ります。「たしかに、あなたたちの肌の色にはキレイだと思うけど…。彼らの服を見てみなよ、茶色とか黒、白ばっかりで一、二色しか使ってないでしょ?」。彼女は、「う~ん、一色ねぇ…。分かった。ひとまず一色だけのブレスレットを作ってみて、その評判をみてみるわ。ありがと」と言って帰っていきました。

そしてしばらく会わぬまま、今朝。わたしに気づいたファトゥマタが、広場の向こう側から揚々と近づいてきます。いつもどおり、頭にはアクセサリーが載ったお盆、背中には赤ちゃん。そして今日は上機嫌。「わが友よ~!わが友ミクよ~!」とか大げさに叫びながら近づいてくるので、ちょっとはずかしい。

どうやら先日のアドバイスは功を奏したようで、「けっこう売れてるのよ。いや~、ありがとね~」とのこと。「で、なにがよく売れる?」と聞くと、「これ」と言って見せてくれたのは、黒一色のビーズのブレスレット。「これ、よく売れるのよ~。特にチュバブの年配のお客さんに」

「ほら、だから言ったでしょ?」と胸を張るわたしに、「それにしても、これ、そんなにキレイかねぇ…」とまだすこし納得がいかない様子のファトゥマタ。まぁわたしも、せっかくマリまで来て、自分の国でもごろごろ売ってそうな黒いビーズのアクセサリーを買って帰るのは、ちょっと味気ないよなぁ…とは思います。

パリでエッフェル塔の置物を、ハワイでド派手ハイビスカス柄のシャツを、京都で「祭」と書いた法被をお土産に買っていく人たちもいるんだから、マリの国旗カラーのブレスレットがマリで売ってたっていいじゃない、とは思います。でもまぁ、売れないとなれば仕方ない。友達の仕事の行き詰まり解消にすこしは役立てたようなので、まぁよしとします。



ある人がたまたま撮ってくれた、ファトゥマタとわたし。ママの猛烈なお仕事ぶりをずっと背中から見つめているこの赤ちゃんが、将来どんな敏腕商人になるか見もの&恐怖です。

2009年9月25日金曜日

マリの野菜を食らふ。

ここ数日、「乾季のぶり返し」みたいに暑い日が続いています。40度近い高温とクラクラする強烈な太陽に、乾季にはない湿気も加わっているので、町の皆さんぐったり。わたしもぐったり。

さて、今日はちょっと野菜の話でも。

マリの料理には、たくさんの野菜が使われます。生野菜のサラダは、女性による野菜作りが普及したここ10年くらいで徐々に食べられるようになったと言います。それまでは、マリに葉っぱものを生で食べる習慣はほとんどなかったのだとか。今ではジェンネでも、多くの女性が町はずれに自分のミニ野菜畑をもっています。畑は増水期には水没するので、ジェンネでサラダを食べられるのは、畑が水没しない4月~8月くらです。

こちらのオーソドックスなサラダは、たっぷりレタスにゆでたビート(赤くて甘いサトウダイコン)やじゃがいも、たまにゆで玉子も入っています。ドレッシングは、あまり酸味の強くない酢と油、調味料をあわせたシンプルなもの。大きな器――大家さんちでは、普段は赤ちゃんの水浴びに使われているたらいを使用――で大量に和えて、皆でバケツを囲んでむしゃむしゃ食べます。とてもおいしいです。赤ちゃんがそのバケツを見て、「今からボクは水浴びをするのかな?」と勘違いして、ハイハイ近づいてきたことがあります。

マリのサラダ歴は浅いので、年配の人のなかには、「生野菜なんぞ動物が食らふもの」という認識も根強いようです。マリではやはり、野菜といえば煮込むもの。煮込んだり、杵でペースト状になるまで搗いてからソースに入れるので、ぱっと見たところ野菜が見当たらないことが多い。でも、ちゃんとはいっています。

よくソースに使われるのは、たまねぎ、トマト、オクラ。特にたまねぎとトマトは、必ずといっていいほど使われます。トマトが好物のわたしにはラッキーな食環境です。これらは原型をとどめぬまで煮込まれて、ソースのベースになっています。そのほかにも、バオバブの葉っぱや、こちらでファク(faku, 学名Corchorus tridens)という草をベースにした緑のソースもあります。ソースには、干し魚や何種類もの香辛料が入れられます。これをごはんやクスクスなどにかけて食べます。

原型をとどめたままソースに入っている野菜は、キャベツ、キャッサバ、にんじん、さつまいも、なす、かぼちゃ、などなど。キャッサバは、煮ると大根とおイモの中間みたいな食感になり、くせがないので何にでも合う便利なお野菜です。

こうした日本でも見慣れた野菜にまぎれて、マリに来てはじめて見たものが。マリで「ンゴヨ」と呼ばれているもので、学名はSolanum aethiopicumというそうです。マリやセネガルの料理でよく見かけます。そのまままるごと煮込みます。見た目はこんなの。大きさはこどもの握りこぶしくらい。ぺかぺかぷりぷりしていて、とてもかわいい。↓


このンゴヨ、ネットで調べたところ、「Ethiopian Eggplant(エチオピア・ナス)」とか「Mock Tomato(ニセ・トマト)」とかいうそうな(http://en.wikipedia.org/wiki/Solanum_aethiopicum)。アジアの熱帯にも見られると書いてあります。わたしが持っている辞書では、英語で「トマトとナスに似た野菜」、フランス語で「この地方のナス」とも説明されています。食感も味も、この呼び名の混迷っぷりがあらわす通り、トマトともナスとも言えるものです。食感は、トマトほどぶじゅっとはしておらず(種はトマトっぽい)、ナスほどのしゃくっとした歯ごたえはなし。これらの中間よりちょっとナス寄り。味は、トマトほどのさわやかな酸味はなく、ナスほどしっぽり大人の味ではなし。これらの中間よりちょっとナス寄り。

ナスの苦味を粗野にしたような苦味があるので、お子チャマはあまり好みません。オトナなわたしはこの両者のいいとこどりな絶妙な味が好きなので、誰も手をつけないのをいいことに、遠慮なく食べています。

唐突ですが、わたしの母は野菜が大好きです。仕事では野菜を売り、野菜と果物の勉強にルンルンと取り組み、家のベランダでこぢんまり野菜を育て、ひたすら野菜を食べています。こってりしたお肉は苦手で、ごくたまぁに「血になるものを摂らなきゃ…」と、しぶしぶ無表情で食べています。小柄で細身なからだで、うれしそうにむしゃむしゃと野菜ばかり食んでいる母が、たまにちっちゃな新種の草食動物に見えるほどです。

以前そんな母から、「トマトはナス科の野菜」と教えられ、おどろいたことがありました。ンゴヨは、まさにそれを証明するかのようなお野菜。(トマトはナス科って、知らなかったの私だけかな。)ンゴヨを日本に持って帰って草食動物な母に見せてあげたいけど、生野菜や植物の種って、たしか国を超えて持ち出し・持ち込みはできないんですよね。残念。

ちなみに、キャッサバもンゴヨも、生でも食べらます。生でぽりぽり食べるキャッサバは、瑞々しくてほのかな甘さがあっておいしいです。生のンゴヨも、煮たときよりも苦味が抑えられてさわやかで、ナスとトマトの「ナス寄り」が、こころもち「トマト寄り」に変化します。マリの人の中にも生でンゴヨを食べられない人がいるようで、外国人のわたしがンゴヨを食べていると、「それをよく生で食べられるわねぇ…」と言われたりします。いやいや、おいしいっす。

野菜のこの「ほのかな甘み」というのが、わたしにはたまらんのです。最近やたらと糖度の高さを自慢する果物や野菜の品種・栽培法が開発されて、たいそうなお値段で売られていますが、あれは邪道だと思います。噛んで噛んで、煮込んで煮込んで、苦味や酸味のなかに、ふぅっとほのかに甘みが感ぜられる。わたしはこれくらいが好きです。

というわけで、ンゴヨを試してみたい方は、ぜひ西アフリカにおいでください。それは無理、とおっしゃる方は、軽く火を通したナスを口に入れて、しばし噛んで口に残したままトマトを投入、というお行儀の悪い食べ方をしたら、なんとなくンゴヨを理解していただけるかと思います。

2009年9月22日火曜日

Open your mouth!―ジェンネの月の名づけ―

9月21日、ラマダーンの月があけました。

ジェンネではラマダーンの月の最終日(9月20日)、男性たちが町はずれの広場に集まって集団礼拝をおこないます。数千の人がメッカの方向を向いて、いっせいに地に伏して礼拝する姿は、なんとも厳かで圧巻です。今年は前日に大雨が降ったので、場所をモスクに変更しておこなわれました。女性も盛装してこの日を迎えます。家族や友人でおなかいっぱい食べて、おしゃれして親戚や友だちの家に挨拶してまわって、子どもたちはハロウィンのように、大人をつかまえて「おめでとうございまぁす!おめでとうございまぁす!」と騒いでお年玉(ちょっとした小銭や飴玉)をせしめて。楽しい祝日です。

ジェンネで、断食やその月を「ハウ・メ(attach mouth)」ということは、以前ここで書きました。そして22日から始まった翌月の名前は、「フェール・メ(open mouth)」。断食のために閉じてた口を、ぱかっと開く月!なんて素敵なネーミング。

これらにかぎらず、ジェンネ語の月の呼び方に、わたくし常々、萌えているのであります。月の名前に胸をときめかせるなんて、理解していただきづらいかもしれませんが、まあいいじゃない。趣味趣向とはそういうものなり。

ジェンネの月の名前(太陰暦)

一の月  デデウ
二の月  デデウ・カイナ
三の月  アルムドゥ 
四の月  アルムドゥ・カイナ 
五の月  アルムドゥ・カイナ・ヒンカンテ 
六の月  アコダージョ
七の月  アラジャウ
八の月  チェー・コノ
九の月  ハ・ウメ 
十の月  フェール・メ 
十一の月 ヒナン・ジャ 
十二の月 チウシ 

ジェンネ語の月の呼び方には、アラビア語起源のものと、そうでないものがみられます。

一の月「デデウ」については、その意味や語源を何人にも尋ねたのですが、よく分からないとのこと。誰か教えてください。二の月「デデウ・カイナ」の「カイナ」はジェンネ語で「小さい」とか「次~」「副~」といった意味なので、つまりは「デデウの翌月」。二の月は一の月の「ついで」っぽくて、ちょっとかわいそうです。「デデウ?デデウ・カイナ」という、浪速の商人っぽい響きが軽妙な一と二の月。

三の月「アルムドゥ」はアラビア語起源です。預言者ムハンマドの誕生日(almudu)の月、という意味。あら、素直なネーミング。そして四の月「アルムドゥ・カイナ」は、「預言者の誕生月の翌月」。やはりおまけ扱いです。さらにかわいそうなのは五の月「アルムドゥ・カイナ・ヒンカンテ」で、「預言者の誕生月の翌月のその翌月」という意味。サブのさらにサブという控えめな位置づけがされている五の月「アルムドゥ・カイナ・ヒンカンテ」に幸あれ。

六の月「アコダージョ」。これも意味や語源を探ってみたのですが、まだ分かっていません。それにしてもアコダージョ…なんかイタリア語っぽい響きですね。音楽の速度標語「アダージョ(緩やかに)」の弟分みたい。そして七の月「アラジャウ」はアラビア語起源のことばです。

八の月「チェー・コノ」はジェンネ語で「足が暑い」という意味です。たしかに陰暦の八の月ごろ、ジェンネは乾季も佳境に入り、連日40度超えは当たり前。乾季にはだしで道を歩こうものならやけどします(比喩ではなく本当に)。そんな頃にこの月の名前。もしくは、「足」には「おしまい」のような意味もあると考えて、「暑さも佳境」という意味なのかもしれません。いずれにしても、暑さにたいするなんと素直な実感がこめられた月の名前でしょう。

九の月「ハウ・メ」は、うえで述べたとおり。「口をくっつける」という意味の断食月です。つづく十の月は、「わたしたち、断食がんばったよね!」という皆さんの安堵感と達成感がうかがえる、「フェール・メ」(口を開けるの月)。

十一の月「ヒナンジャ」は、ジェンネ語で「お休み」という意味です。宗教の世界で「安息日」というのはありますが、「安息月」にも宗教的な意味があるのでしょうか。ジェンネの「お休みの月」である十一の月は、農業は稲刈り直前、漁業は繁忙期、牧畜業は放牧の旅を終えて大移動――と、むしろ皆さん忙しい時期にあたります。休んでいる暇はありません。

そして十二の月「チウシ」。これはアラビア語起源のことばで、雄羊を意味します。太陰暦の最後に、他のイスラーム圏ではaid al adhaなど、マリでは「タバスキtabaski」と呼ばれる、羊の犠牲祭があります。各家庭で気前よく雄羊を一頭ほふって盛大にお祝い。羊にとっては恐怖の月だと思いますが、わたしたち人間には、日本でいう大晦日~元日のような厳かかつうきうきわくわくなお祭りです。雄羊をほふるから、最後の月は「雄羊月」。なんだか星座のおひつじ座みたい。あ、おひつじ座もたしか12月の星座ですね

――どうですかね。八、九、十の月あたりなんて、特にそそられませんか。あと、「・・の次」としか言われない二、四、五の月が、ちょっと切なくありませんか。十二の月のなかでどれが一番かを選べといわれても難しいですが、あえて選ぶなら「アルムドゥ・カイナ・ヒンカンテ」かな。もっともないがしろにされている感じなのに、響きは端正に硬質で、声にだして読むと心地よい。

分かっていただけましたかしら、ジェンネ語の月の名に萌えるわたしの気持ち。

分かるかなぁ~分かんねぇだろうなぁ~ by 松鶴家千とせ。
(分からないヤングはこちらをご覧ください。↓
http://www.youtube.com/watch?v=Olnu4wUlRL8 )



ジェンネの月、長屋の屋上から。月ってなんでいつも、写真に撮るとこんなにちっちゃくなってしまうんだろう。目で見やるとあんなに大きいのにね。

2009年9月18日金曜日

日本の首相はアナボーリ?

ここ数日、テープに録音したインタビューを逐語訳して書き留める、という作業をしていて、おもしろいけど実に時間がかかってつらい。耳と肩と頭が疲れる。質問や相槌をうつ自分の声もはいっているので、さらにまいってしまう。なんて低くて美しくない声!そんなときにはこの歌を思い出して頑張るのです。クラムボンの「charm point」。(アルバム『id』に入っています。youtubeにはなかった。ぜひ買って聴いてみてください。) 

さてさて、先日、日本の首相が変わったそうで。

マリの国営テレビでも、ほんのちょろっとですが、日本の新しい首相誕生のニュースが伝えられました。ちょうど知り合いの家の前を歩いていたときで、「ミク、ミク、日本のニュースみたいだよ!」と呼びとめられたので、一緒に見ました。

いやぁそれにしても、外国にちょっといた方ならなんとなく分かっていただけるかと思いますが、異国で見る日本の映像というのは、なぜこうも異質な感じに映るのでしょうか。あと、外国の博物館の日本展示コーナーも。それに、おそろいのスカーフや帽子を身に着けた日本人団体旅行客も。日本であれだけ見慣れているものなのに、こうして見るとすごい「異国」感。エキゾチック・ジャパン。

一緒にニュースを見ていた人が、いろいろ質問してきます。「日本の大統領は誰?」「日本には大統領はいなくて、首相が国のトップです」「えぇ!?大統領がいないなんて!」「この人の名前は?」「鳩山」「…アトゥヤマ?」「non,non, ハ・ト・ヤ・マ」「ミクもこのアトゥヤマ(言えてない)に投票したの?」「日本では国家元首を直接投票で選ばないの」――といった、ありがちなやりとりが続きます。

そのなかにいたある子どもが、鳩山さんを凝視しながら、ぼそっとつぶやきます。「…ア ナボーリ。」すると大人の皆さんも、『小僧、よくぞ言ってくれた!』という感じで、「うむ確かに、アナボーリ」「う~ん残念、アナボーリ」などと口々に同意します。

「アナボーリ」とは、ジェンネ語で「彼は美しくない」ということ。まぁひどい!…うーん、まぁねぇ?政治家は顔の美しさで勝負しているわけではないから、遠く離れたマリの地でそんなこと言われたって、彼もかわいそうだ。反論するとすればそうだな、味のある独特の魅力的お顔と言えなくもないではないか!

実は日本の首相がここでアナボーリと評価されたのは、これが初めてではありません。わたしが前回ジェンネにいた2007年にも、小泉から福田首相への交代がありました。マリでもすこし報道されたようです。わたしはその映像が流れたことを知らなかったのですが、あとで色んな人から、「日本の新しい首相をニュースで見たよ」と声をかけられました。そして皆さん、「…それにしても、アナボーリだねぇ」などと同情するように付け加えてきます。ここでは政治家は俳優みたいな顔でないといけないのか?マリの大統領も、べつに美しいお顔じゃないじゃん…などと思いながら苦笑い。

はっ…!でも、ジェンネの市長さんはたしかに男前です。前市長も、今年新しく就任した市長も、「ちょっとジェンネの皆さん、あなたたち、顔で選んだでしょ?」とつっこみたくなるほどです。まじめそうな政治家の顔というよりも、色男の顔。前市長さんはたれ目の甘いマスクで女性にもてそうな顔だったし(実際もてていた)、現市長さんは細身長身でいつも斜めにタバコをくゆらせ、どこかチョイワルの男前です。どちらもタイプは違えど、たしかに「ボーリ」だわ。

それにしても、帰国するたびに首相が変わっているとは、あわただしいものです。でも、それより何より?わたしがショックだったのは、2004年にマリから帰ってきたとき。わが故郷の福岡ダイエーホークスが、いつの間にか福岡ソフトバンク・ホークスに変わっていました。知らなかった…。ホークスの応援歌をくちづさむとき、いまだに「われらぁ~の われらの~ぉ ダイエーホークス~ぅ」と歌ってしまう私なのであります。年配の方たちが以前、ホークスと言えば南海ホークスで、ダイエーホークスと呼ぶには違和感がある、と言っていた気持が分かります。

日本に帰ったら、「鳩山首相」という響きに慣れるのにも、しばらく時間がかかるんだろうな。とにかく新首相、アナボーリかボーリかどうかは関係ありません。がんばってください。このままだと、日本はとっても生きにくい国で、20年後に外国に逃亡している自分が見えてしまいます。

さてちなみに、ジェンネの人たちにとっての「ボーリ」な政治家は、オバマさんだそうです。そりゃ、アフリカでも絶大な人気のオバマ大統領を基準にされたら、日本の首相も形無しってもんよ。

2009年9月15日火曜日

マラリア予防薬。

マリはただいま雨季です。雨季といえば蚊の季節。蚊の季節といえばマラリアの季節。

マラリア:マラリア原虫による伝染病。熱帯、亜熱帯に多く、温帯でもまれに見られる(日本では40年ほど前からみられなくなった)。原虫の種類によって、三日熱マラリア・四日熱マラリア・卵形マラリア・熱帯マラリアなどと呼ばれる。ハマダラカが媒介する。40度を越える高熱、はげしい悪寒、貧血状態、吐き気などが症状。熱帯熱マラリアでは脳梗塞が起こる場合も。

今日は、そんなマラリアの予防薬とそれにまつわるあれこれについて書こうと思います。マラリアが広がるほかの地域には当てはまらない点もあるかもしれませんが、西アフリカに来る予定の方には、ちょっとはお役に立てるかな。そんな人がこのブログを読んではいない気もするけど。

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マラリアの予防薬・特効薬は、時代とともに変化しています。(たぶん)最初に「これはマラリアに効く!」と言われていた成分はキニーネ。戦時中、衛生兵としてタイの戦地にいた祖父からも、マラリアにかかった村人や兵隊さんにキニーネを投与した話を聞いたことがあります。小さい頃おじいちゃんから聞くマラリアは、「南のほうの異国の病気」、「兵隊さんの病気」だと思っていました。まさか自分がかかわろうとはね。

その後、マラリアに有効な成分として、クロロキン、メフロキン、プリマキンなどが登場しました。なかでもマラリアの「特効薬」として長いことちやほやされてきたのが、クロロキンです。これは視覚障害の副作用が問題になったため、日本では1975年から販売中止になっています。でもマリでは――おそらくたいていの他の国でも――クロロキンは販売されています。10錠100CFA(約20円)。マリでもとてもポピュラーな予防薬です。

よく用いられてはいるものの、マリではクロロキンはすでに一昔前の存在と認識されています。クロロキンに耐性があるマラリア原虫がでてきて、飲んでも予防・治療できない場合が多くなっているそうです。クロロキンは安いし田舎でも手に入るので手軽ですが、万全ではない。もちろん、たいていのマラリアにたいする一定の効果はあります。

そして今日、マラリア予防薬で効果的といわれているものはなにかしらん。――わたしはお薬にかんして、「頭痛にはバファリン、下痢には正露丸、かゆみにはムヒ、失恋には時間と新しい恋」ということをかろうじて知っているだけの、完全な文系人間です。なのでここでは、わたしが服用したことのある2つの抗マラリア薬について書きます。ほかにもたくさんの有効といわれる成分や異なる配合があるかと思いますが、それらについてはよく知りません。

〇予防薬として服用したもの
Fansidar(商品名):Sulfadoxine (500mg) の錠剤。1プレート3錠300CFA(約60円)。

「今いちばんヒップでホットなマラリア予防薬をおくれ」と首都バマコの薬剤師さんに相談したら、これを勧められました。業務用みたいな大箱に入っているので、箱ではなくプレート単位で購入します。薬剤師のおじさんに用量を尋ねると、ふむふむと説明書を読みながら、「マラリアにかかった場合はまとめて4錠。予防としてなら、毎食後1錠ずつを一週間続ける。それでワンシーズンは大丈夫!」と教えてくれました。



とても素直なわたしは、せっせと毎食後に飲みましたとも。薬を飲み忘れことがよくあるので、「チェック表」まで作って、順調に飲み続けました。そして4日目の午後…なんか吐き気がする。調査でインタビューの約束があったので出かけるも、インタビュー中もその気持ち悪さは高まっていく。なみだ目でえずきを堪え、どうにかインタビュー終了。とてもいやぁな予感をかかえて、這うようにネットカフェへ向かいました。「この吐き気、これ以外に思い当たる原因はないわ」と、おそるおそるお薬検索サイトdrugpedia(http://drugdpedia.net/)とやらで確認すると――

「用量:発症したら一度に2,3錠。予防には1錠/1週間もしくは2錠/2週間度」って書いてあるやん。そして「過剰摂取」の欄には、しっかり「吐き気」って書いてあるやん。――わたし、マラリア発症してないのに、週に1錠だけでいいものを、4日で計11錠飲みましたけどー?薬剤師のおっさんのどあほ!おかげですっごく気持悪いじゃないか!

あぶないあぶない。あのまま我慢して摂り続けなくてよかったです。過剰摂取時のその他の症状には、「食欲減退、痙攣を含む副作用の症状、誇大妄想、白血病、血栓症、glossitis、crystalluria」とあります。最後のふたつはわたしの英和辞書に載ってすらいない。なにがキラキラglossして、なにが結晶crystallになってしまうのかしら。あなおそろしや。誇大妄想とかに陥らなくてよかったです。謙虚につつましく生きたい人間ですもの。

それにしても薬剤師さん、説明書読みながら教えてくれたのに…あれ、それらしく読んだふりだったのか?それなら資格剥奪!もし薬剤師じゃないなら、白衣なんて着ないでくださいな、まぎらわしい。首都にたくさんある薬局のなかでも、お金持ち地区にあるちゃんとした感じのところに行ったんだけどな…。

というわけで、4日目以降は飲むのをやめました。でもその後しばらく吐き気はつづいたし、手足がむくんだ感じでした。皆さん、【一週間に1錠】です。お間違えなく。こんなすったもんだを書きましたが、もちろん正しく摂取すれば、抗マラリア効果は高いと思います。上述サイトによると、クロロキンでは対応できないマラリア原虫にも有効らしいです。

薬剤師さん(もしくは白衣を着たただの店員さん)を信用しすぎてはいけません。これはわたしも反省。次回からは、説明書を力ずくで奪ってでも、自分で読んで確認するようにいたします。

また、マリでは露店の薬売りさんもよく見かけますが、かれらは薬剤師の資格をもっていません。また、こうした露店で売られているお薬には、たいてい説明書がついていませんし、服用量の案内も書いていません。露店が悪いと言っているわけではないけど、露店のお薬は、ちょっとあやしい。数ヶ月前、政府当局がこの手のあやしいお薬をダンボールごと原っぱでめらめらと焼いて、業者と消費者に「売るな、買うな」のみせしめパフォーマンスをしていたくらいです。ご注意を。

〇かかってしまったときの薬
Coartem(商品名)。主な成分はArtemisinとLumefantrine。24錠入りで5,000CFA(約1,000円)前後(正確な値段は失念)。

予防薬は飲んでいる、でもマラリアにかかってしまった!という場合もなきにしもあらずです。わたしは前回の滞在でおばかにもそれをしでかし、大変な目に遭いました。胃が荒れてしんどかったので予防薬を飲むのをちょっと休んだら、その隙にマラリア原虫がインベード。35度の気温のなかで何枚も毛布をかぶってもガタガタと悪寒が止まらないし、40度の熱が続く。こわかった~。

発症したらなによりまず、ちゃんとした病院へ行くべきです。でも、「車で4時間圏内に病院がない」とか「いやそもそも、交通手段は馬かロバしかない」とか、「病院に行ったけど、ラマダーン中だからお医者さんが早めに帰っちゃってた」という場合には、自分でお薬を飲んだほうがいいと思います。これらはどれも、マリ(の田舎)では普通にあり得る/遭遇したのことのある状況です。

このCoartem、症状がでたらまず4錠、8時間おいてさらに4錠、それ以降は朝晩4錠ずつ2日間、という摂取スケジュールです。わたしの場合にはよく効きました。副作用が少ないらしい(説明書によればね)というのも、臆病なわたしには高ポイントです。発症後3日間で計24錠飲みきりましたが、無理にでもなにか食べてから薬を飲めば、胃は荒れませんでした。

というわけで、今後マリにいらっしゃる予定の皆さまに、これらのお薬情報が少しは役立てばさいわいです。――くどいようですが、わたしはお薬どころか、人生のたいていのことに関してど素人なので、ぜひ、ほかの情報と併せてご参考ください。

***

ジェンネでは、赤ちゃんがよくマラリアで亡くなります。でも、抵抗力の弱い赤ちゃんだけがあぶないのではありません。「これまで何度もマラリアにかかったことがあるけど、毎回たいしたことなく治ってきた」という元気そのものの若者でも、場合によっては亡くなってしまいます。

前回のジェンネ滞在のとき、近所に住む同い年の男性がマラリアで亡くなりました。発症して4日。あっという間。病院にお見舞いに行ったときに見た、げっそりやせて震えながらうー、うー、と廃人のようにうめいていたその姿は、正直、近づくのを躊躇するくらいこわかったです。とても悲しくてショックでした。いくらここではよくある病気でも、あなどっちゃだめなんだな、とつくづく思いました。

ちなみに、マラリアになると肝臓と脾臓がはれるそうです。わたしは発症する前日、すごく腹筋が痛かった。激しい運動なんてしてないのに、なんでだろな?と思いながら、痛みをかばって前かがみによたよた歩いていました。その夜は横になるのもつらいくほどの痛み。そして翌朝、一気に高熱しました。あとから思えば、あれは筋肉痛であるはずもなく、肝臓と脾臓の腫れのせいでした。筋肉痛だなんて思ったわたしのおばか。ということで、「覚えのない腹筋肉痛」は、発症直前のシグナルのひとつかもしれません。こちらもご参考まで。

2009年9月12日土曜日

こういうもんではなかろうか。

水曜日、長屋のお隣に住むおじさんが亡くなりました。下の子どもはまだ小学生。マリの男性の平均寿命が 48歳とはいえ、これはあくまで平均で、70、80まで元気なひともめずらしくないので、早すぎる気がします。早朝、奥さんが泣き叫ぶ声で目がさめて、あぁ、亡くなったんだな、とわかりました。今回の滞在で同じ長屋のひとが亡くなるのは二度目なので、さすがに気が沈みます。

前回2007年にジェンネにいたときからのお隣さんです。気の強い奥さんとは対照的に、もの静かな旦那さん。首都でおこなわれる競馬が好きで、よく鉛筆片手にチラシとにらめっこしていました。でも、つつましい生活なので、賭けることはめったになかったそう。雑音まじりのラジオでその結果を聞いて、地味に楽しんでいました。奥さんと子どもが喧嘩していると、どちらを責めるわけでもなく、どちらの言い分も、うんうん、と聞いてあげていたお父さん。年齢をたずねたことはないけど、まだ40代半ばくらいだと思います。

今年3月にジェンネにやってきたときに、「あれ?おじちゃん、ずいぶん老けたなぁ…」と思いました。前から1年しか経ってないに、10歳ちかく老けた印象。6月にはいってから畑仕事にでることも少しずつ減り、中庭にござを敷いてじっと座っていることが多くなりました。おじちゃんのあとにトイレに行くと、なんだかいやぁなにおいがしました。ご飯を食べるのも歩くのも、どこかつらそう。それでも毎日の礼拝はかかさずに、生まれたばかりの孫娘をお祈り用のござの隅っこにちょこんと座らせ、中庭でお祈りしていました。また、やんちゃざかりの息子たちを、杖でつんつん小突いて遊んであげたりもしていました。

ラマダーンの月にはいった2週間前から、部屋のなかで完全に寝込んでしまいました。病名は分からないけど、おじちゃんのその様子から、もうだめなのかな…という不安がありました。――そして、ひとがおうちで死を迎えるというのは、こういうことなんだな、と思いました。

もう起き上がることすらできないおじちゃんが寝込むその部屋の前で、子どもたちは近所の子とトランプ遊びをし、きゃっきゃとはしゃぐ。息子は側転ができるようになったと言って、自慢げにクルクル回ってみせる。孫娘がお母さんのひざの上でうんちをしてしでかしたと言って、皆がわぁわぁ騒ぐ。騒ぎすぎて、「お父さんが寝てるでしょ!」と奥さんが怒鳴る。近所のひとたちが毎朝、あいさつをしにくる。「お見舞い」という感じではなく、いつもの毎朝の挨拶と変わらない感じで、一声かけていく。奥さんと娘さんは、中庭でいつものようにトン、トン、と杵をつき、火をおこし、煮炊きをして、やわらかい部分をお父さんのために選り分ける。かまどの煙が、お父さんが横になる部屋にも、するすると入っていく。

たいていのジェンネの人は、こうしておうちで亡くなっていきます。入院するひとはごくわずか。おじちゃんはまだ若いので、もしかしたら、はやいうちに首都の大病院に入院していれば助かったのかもしれません。でもここの病院は正直、重病者が回復するまでケアできるようなレベルではありません。ちょっとした怪我の治療と内科の問診が精一杯。首都の大病院に行けば見込みはあるかもしれないけれど、ここでは病院ではまずは現金を示さないととりあってもらえず、保険も一部のお金持ちの人しか加入していないのです。入院という選択肢は、あまり大きくないのです。

わたしには、病院があったら助かったのに…という思いよりも、こうしておうちで亡くなっていくおじちゃんと、それを看取る家族を見て、「あぁ、こういうことなんだな…こういうもんなんだよな…」という思いがありました。

病院が悪いわけでも、病院に行けない状況がいいというわけでもない。なにかあったら、ただちに高度な医療のお世話になれる日本から来たわたしがこんなことを言うと、「持てる者の余裕」、安直な「田舎生活賛歌」に聞こえてしまうかもしれない。

それでも、日々の生活から隔絶されないまま、日々の生活の隅で、それを見届けながら、そのにおいをかぎながら、その音を聞きながら亡くなるというのは、人にとって当たり前のことなのではなかろうか、とつくづく思いました。ちょっと前まで見慣れなかった白衣や真っ白な壁と天井、慣れないベッド、遠慮してあまり訪ねて来ることのない親戚・近所の人・友人、聞こえてこない子どものはしゃぎ声、ただよってこない夕飯の支度のにおい。それはやっぱり、ひとの最後としては、ちょっとつまらないことなんじゃないかな、と思いました。

今回のことを見て、「マリにもっと病院を!健全な医療体制を!そのための支援を!」と思いおよばないわたしは、なにか欠落してるんだろうか。まぁそういうことにはそういうことの専門の人がおるんやから、向いてないことに気勢を上げるのはよそう。わたしは隅っこで悶々と、おじちゃんとその家族と、自分のふがいなさを思おう。

おじちゃんが亡くなった朝、たくさんの人が中庭に集まってきました。皆さん、中庭に敷かれたござに座り、その死を悼みます。一時間くらいして、近所の男性たちが、むしろにていねいに包まれたおじちゃんを部屋から運びだし、町はずれの墓地にむかいました。

ジェンネで亡くなった人は、かならずモスクの前を通って墓地に運ばれます。モスク前の広場で葬列は立ちどまり、お葬式のための無言の礼拝がおこなわれます。広場では男の子がサッカーをし、女性たちが立ち話をし、コーラン学校の生徒が木陰でコーランを読んでいます。葬列を見て、そこにいる皆は、この町の誰かが亡くなったんだと知り、ぴたっと立ちどまり、祈りを見つめます。

おじちゃんが運ばれていった後も、たくさんの人が家を訪ねてきました。男性の親族は、家のまえの路地にござを敷いて座っています。部屋の奥にひっこんで喪に服す奥さんを囲んで、親戚の女性や友人たちが、静かにおしゃべりをしています。

おじちゃんが運び出されていくとき、気丈な奥さんが必死で涙をこらえている姿や、「バーバ…、バーバ…(お父さん、お父さん)」とむせび泣く幼い息子のようすは、見ていてとてもつらかった。でも、派手な祭壇も、ビシっと着込んだ喪服も、仰々しい司会進行もなく、ただ悼むひとだけがそこに在るお葬式は、淡々と静かだったおじちゃんそのもののようでした。

あぁ、死ぬというのは、こういうもんではなかろうか、と思いました。

「これがいい」でも「こうでなくてはいけない」でも「これではいけない」でもなく、こういうもんではなかろうか、ということです。

ジェンネ語で「天国」は「ジェンネ」といいます。アラビア語起源のことばで、町の名前とおなじです。おじちゃんは、ジェンネの町から、あちらのジェンネへ召されたのでしょう。おじちゃん、からだ、だいぶしんどかったと思います。いまはどうぞ、天国で安らかに過ごしてください。

2009年9月9日水曜日

今日は昨日で、降りるは昇る。そして踊るは歌う、なのだ。

ひさびさに、ジェンネのことばのはなし。

ジェンネは、1km2 にも満たない町です。そこに、およそ1万4000の人が住んでいます。ちなみに、東京でいちばん人口密度が高い中野区で、およそ1万9000人/km2らしいです。中野区には及びませんが、人間ジャングル・都会砂漠トキオにひけをとらない、ジェンネの人口密度!

ジェンネには、そんな限られた土地に、たくさんの民族集団がぎゅうぎゅうつまって暮らしています。主なのはソンライとフルベという人たち。ほかにボゾ、バンバラ、ドゴン、モシ、ボボ、トゥアレグなどなど。

言語がちがうたくさんの民族がご近所さんどうしなので、コミュニケーションには共通の言語が必要です。その役割をはたしているのが、ジェンネ語(ソンライ語のジェンネ方言)。家庭内ではそれぞれの民族の言語が話されていたりしますが、言葉の違うエスニック同士の会話や、公の場(地区の集会とか、町全体の催しごとなど)で用いられるのは、ジェンネ語です。

またジェンネのひとは、複数の言語をやすやすと使いこなします。相手によって、使う言語をスイッチング。4,5歳のこどもですら、2つ3つのことばを相手によって使い分けたりします。大人になると、5つの言語を話せる人もめずらしくありません。(たとえば私のお隣さん。彼女自身はバンバラという民族のひとですが、バンバラ語のほかに、ジェンネ語、フルベ語、ボゾ語、そして少々のアラビア語を解します。大家さんは、これにさらに学校で習ったフランス語を加えた6つ。)

この言語能力、ほんとにすごいなぁ、と驚くばかり。でも、「すごいねぇ」と言うと、たいていジェンネっ子はきょとんとします。かれらにとっては、これが普通なのです。自分たちの「普通」をすごいとほめられても、あまりぴんとこないみたい。日本人が外国のひとに「Oh, 箸の使いかたがなんて上手なの!unbelievable!」とほめられても、「えぇ、まぁ、慣れてますから…」と答えるしかないような感じでしょうか。

ほめちぎるわたしに、「だって、違う言葉をしゃべる人が近所にいたら、どうやってお話するのよ?あなたもそういうところで育てば、3つだって4つだって違う言葉が話せるようになるもんよ」ですって。さらりと言ってくれるじゃないの。

さて、マリの公用語のフランス語でさえ外国語――マリの人にとっても、フランス語は植民地支配がもたらした外国語ですが――のわたし。こんなにローカルな言語があふれているジェンネでは、たまに困ってしまいます。

たとえばこういう場合とか。

ある人がわたしとジェンネ語でしゃべっていたとき、通りすがりの人がフルベ語で挨拶してきた。そこでその人はフルベ語で返事をし、しばし雑談。そして私とのお話に戻っても、さきほどまでのフルベ語につられて、フルベ語でおしゃべり再開。「あ、フルベ語わかんないです…」と指摘すると、「あぁ、ごめんごめん」と言ってバンバラ語で話し始める。「いや、さっきまでわたしとはジェンネ語で話してましたよ」とさらに指摘すると、「あ、そうだっけ?まぁ気にするな。君、バンバラ語も十分わかるんでしょ?」とくる。いやぁ、ジェンネ語だけでも、理解するのに必死ですってば。

それぞれの言語の響きは、だいぶ違うのです。たとえば、「わたしは家に帰ります(je vais à la maison.)」は、――カタカナで表現しづらいので不適当ですが、あえて書くと――バンバラ語では「ンベタソ」、ジェンネ語では「アイコイフゥ」、フルベ語では、「ミゥィチチューリ」。だから普通は、相手がなんの言語で話しているのか、その響きからパッと区別がつくのです。

でもいくつか、とっても紛らわしいことばが。ぼぅっとしていたり疲れているときにとっさに話しかけられると、「へ?どっちかね?」と混乱します。その代表格が、「ジギ」と「ビ」と「ドン」。

「ジギ」はバンバラ語で「降りる」、ジェンネ語では「昇る」の意味。同じ響きなのに、意味が真逆。「ビ」はバンバラ語で「今日」、ジェンネ語だと「昨日」。一日ずれてる。「ドン」はバンバラ語で「踊る」、ジェンネ語だと「歌う」。なんとなく近いけど違う。

ふたつの言語が一緒に使われないところにいれば、この意味のニアミスもなんてことないのでしょうが、バンバラ語もジェンネ語も、ジェンネではよく使われるから困ります。ジェンネを一歩出ると、たった5kmしか離れていない村でも、ジェンネ語が通じません。なので、よその町から来た人がその場にまざっている場合などには、バンバラ語で話したほうがスムーズに通じるのです。(ジェンネではバンバラは人口の5%と少数ですが、マリ全体では人口の4割以上を占めるマジョリティ。その言語バンバラ語も、マリ国民の7割が使えるそうです。)

というわけで、今日が昨日だったり、昇るが降りるだったり、バンバラ語で「ミク、踊りなよ(ミク、ドン!)」と踊りの輪に誘われて、「あ、では、せんえつながら…オホン」と、ミクは歌い(ミク、ドンinジェンネ語)始めてしまい、恥をかくこともあったり。いえね、踊りのBGMになるような歌を歌え、という意味だと思ったんですよ、ジェンネ語で。お祝い事だし、はずかしがって場を盛り下げてはいけないと思ったんですよ。

マルチリンガルっておもしろい。どこか気楽。まざっているのが当たり前、違うのは当然――そんな感覚のなかにいると、皆さんあんまり、「違う」ということにくさくさしない。違うから悪いとか、違うからすごいとかでなく、違うからこそ、それぞれのものを交換できる。言葉にかぎらず、いろいろと。

日本ももっといろいろ混ざればいいのに、と思います。日本というか、じぶんの生まれ育ったり住んでたところは好きだけど、でもやっぱり、もっと混ざったほうが深みがでるんじゃないか?と思います。韓国語、中国語、ポルトガル語、英語、あれこれ。他言語の話者が日本にもぎゅうぎゅう住んでいるのに、必死に耳を澄まさないと聞こえてこないなんて、妙な話です。「純粋なる国語」なんて、ありえないと思うんだけどなぁ。

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写真は、本文とはまったく関係ないのですが、ちょっと興味深かったので。近所の男の子たち。この年頃の男の子集団にカメラを向けると、なぜか「強いぞっ!」という感じの、カンフーもしくは〇〇レンジャーみたいなポーズをとるのは、万国共通なのだなぁ、と。

もちろんマリで「〇〇レンジャー」のシリーズは放送されていません。カンフー映画はそこそこポピュラーですが。特に、いちばん左の子の、「関根勉がするカマキリのものまね」みたいなポーズは、日本でもお調子者の男の子がよくやっていたなぁ、と小学生のころを思い出してしまいました。あ、しかもこの子、カマキリ色の服やね。

2009年9月5日土曜日

覗いちゃイヤン。

愚痴ります。(天津木村の「吟じます」ぽく。)

以前このブログで、「チュバブ(白人)」のわたしが珍しくて、ジェンネの見知らぬ子どもたちが悪さをしてくることを書きました。身体的なことをからかってきたり、私のジェンネ語(もちろん完璧でなく訛っている)の口調をまねておちょくってきたり。まぁここまでは、悪ガキが調子にのっている、という感じです。

でも、それだけでは済まないのが困る。無視すれば、それが気にくわないのか、棒で叩いてきたり、石や靴を投げつけてきたり。これはけっこう恐怖だし、ひどい屈辱なのです。しかもちゃんと、まわりに大人がいないときにそういうことをしてくる狡猾さ。キ~ッ!

今でも相変わらず、毎日同じような目に遭います。追いかけて運よく捕まえられれば、バシバシお尻を叩いておおいに叱ることも、腕をつかんで長々と説教をすることもありますが、効果なし&きりがなし。慣れるのは難しいですが、毎回それに反応していては精神的にもたない。それに、そういうことをするのは一部の(にしては多いので困る)子どもだけなので、しょうもないガキはなるべくスルーしよう、てきとうに丸め込もう、と決めて、どうにかこうにか心の均衡を保ってきました。

でも昨日、その必死で保ってきた均衡をやぶる出来事が。

見知らぬ子どもたちに、はだかを覗き見されたんです!あぁもう、本当にイヤ。とってもイヤぁな気分なのよ、わたし。

わたしの長屋のトイレ兼水浴び場は、建物の2階にあります。囲いはあるけど、屋根はありません。これはジェンネでは珍しい造りではありません。そしてすぐ隣の建物は、うちより高い三階建て(もちろん三階でも泥づくりの家)。路地を挟んでいますが、そこの屋上のへりに立てば、わたしんちの水浴び場が見えてしまいます。でももちろん覗き見をする人などいなくて、隣の建物の住民は、たとえ屋上に用事があっても、うちの水浴び場が見えてしまうポイントには近寄りません。暗黙の了解です。

さて、自慢じゃぁありませんが、ジェンネでわたしは有名人。ジェンネに住んでいるチュバブ("白人")はわたし1人なので、とてもめずらしいのです。わたしが住んでいる家も、だいぶ知られています。言うなれば、わたしがすき好んで彼らの町に勝手におじゃましているわけなので、まぁ、これ自体は特に気にしはしません。

(でも、わたしの家を知っている見知らぬ大人がお金を無心しにやって来たり、見知らぬ男の人が夜中に口説きに来たり――あちらは私をどこかで見知ったうえでの好意だろうけど、こちらからすれば、夜中に見ず知らずの男性がドアをノックしてくるのはかなり恐怖――、子どもたちが私がごはんを食べる様子をのぞきに来たりするのは、けっこうなストレスでもあります。)

さてそんなわけで、家が知られているうえに、水浴び場が隣から覗き見れるので、悪ガキたちのあいだで「チュバブの裸を見てみようぜ!」という話になったのだと思います。隣の家はいつも人が出払っていて、比較的ひとが少ない。その隣の建物の屋上に、こっそりのぼったようなのです。

まさか覗かれているとはつゆ知らず、いつものようにバケツの水でからだを洗うわたし。当然、なにも身に着けてない姿です。石けんの泡を流しているときに、なーんかひそひそ声が聞こえるなぁ…と上を見たら、隣の屋上に人が!10歳くらいの男の子たちが、こちらを指差して笑っているのです。しかも7人も。

とっさに「そこで何してんの!?あっち行きなさい!」と怒鳴ると、「ハハハ!チュバブが裸だぁ!裸で怒ってらぁ!」としばらく笑い、走って逃げていきました。こちらはあわてて手に取ったタオルで体を隠しているだけ。今から服を身に着けて下へ降り、ぐるっと家をまわって隣の家まで行っても、彼らはすでに逃げているので無意味です。

隣の家の子どもたちやその連れではない見知らぬ顔ばかりだったので、あきらかに覗きをするためだけに来ていたのです。この水浴び場は長屋の共同なので、他のひとも同じところで水浴びをするのに、なぜ私の時だけいたのかしら?――あぁそういえば、今日はすこし前から、同じ顔ぶれの子どもたちが何度も何度も路地からうちの長屋の中庭をのぞきこんでいて、お隣さんに追い払われていたっけ。いつものごとくチュバブを見に来ただけの子どもにしてはくどいなぁ、と思いつつ無視していたけど、まさか、わたしが水浴びに行くタイミングを確認していただなんて。最低だわ、そのずるがしこさ。

わたしもそろそろ三十路です。自分の子どもといってもおかしくない年齢の男の子に裸を見られても、正直あまり恥ずかしくはありません。でも、「家族以外の女性の裸を見る」=とってもよくないこと、見られる女性は嫌がるであろうことを分かったうえで――なにせかれらは、幼くともムスリム、しかも今は特に神聖な月・ラマダーン――、そんなことをしてきた子どもたちのレベルの低さに、ほんとうに腹が立ちました。しかも、あっちに行けと怒った時、ばつが悪そうに逃げるのではなく、わたしがすぐに追いかけられないことを知って、怒るわたしのその姿をしばし笑ってから去っていくなんて。卑怯このうえなしやん!は、ら、た、つ、わぁ~。

その後、隣の家に行って、屋上に子どもが上っていくのを見なかったか聞いてみたり、彼らが逃げていった道にいた人に、走って逃げていった子どもの名前を知っているか、など聞いてまわりました。わたしの話しを聞いて、一緒に憤ってくれる人もいました。でも、残念ながら手がかりはなし。

「チュバブにたいする好奇心」ではすまされないことだよなぁ、と思います。あの子たちがあのあと、チュバブはこんなふうに体を洗っていたとか、チュバブの裸はこうだったとか、タオル一丁の間抜けな姿で怒ってきたとか、そんなことを笑いながらほかの悪ガキ仲間にふれまわっていると思うと、ますますやるせなくなってしまうわけです。

…嗚呼、ほんとうにイヤな出来事でした。昨日はせっかく、調査がうまくいって、とっても充実した気分だったのに。

もちろんジェンネには楽しいこともいっぱいありますよ。みんなで雹(ひょう)を食べたりとかね。↓そんなことも、もちろんたくさん書いちゃいますよ。わたし、おしゃべりやもん。

あ、ちょっとスッキリ。

2009年9月3日木曜日

アッラーの氷。

火曜日の宵の口、激しい砂嵐のあと、雷雨がきました。もっか雨季なので、これはごく普通の出来事。わたしは、外から大慌てで家に帰ってくる子どもたちのはしゃぎ声を聞きながら、お部屋で本を読んでおりました。雨で気温が一気に下がり、とても快適です。

しばらくすると、お隣の娘さんが「ギャー!ギャー!」とわめきはじめました。このお嬢さん(18歳くらい)、極度のショック――知り合いが亡くなったり、自分のベイビーが石鹸を口にして吐いてしまったり――を受けると、動物がとり憑いたようにわめき暴れ、過呼吸気味になってしまいには失神する、という、たいへんセンシティヴなところのある子です。普段のとても理知的&かなり美人の彼女からは想像できないその姿に、最初こそおったまげたものですが、何度かその介抱をしているうち、ようよう慣れてきたところでした。(まぁそれでもあの姿を見ると、毎回心臓がバクバクしますが。)

わめき声を聞いて、「すわ、今回はなんだ!?」と外に飛び出たところ、なんと彼女が、大粒の雨がふる中庭を笑顔で走りまわっているではないか!「まあ、彼女にはこんな陽気な発狂パターンもあったんやね…」と呆然としていると、彼女が「ミク、あなたもおいで!」と私を誘ってきます。その様子は、興奮気味ではあるものの、いつもの感じ。どうやら今回は発狂しているのではなく、なにかに大喜びしていただけのようです。あぁひと安心。すると、長屋のほかの皆さんも続々と、おおはしゃぎで中庭に飛び出してきました。

「ミク!アッラーの氷よぉぉ!」と叫びながら、彼女が地面から拾った氷の粒を渡してくれました。わぁっ、雹(ひょう)だ!大粒の雨に混じって、ぬかるんだ地面に、ぼとぼとと雹が落ちてきているのでした。べつのお隣さんも、落ちてきた雹を拾いながら、「拾いな!食べな!」と笑顔ですすめてきます。砂まみれだったけど、雨ですこし洗ってそのままぱくっ。あぁおいしい。

耳を澄ませると、激しい雷雨の音に混じって、町のほうぼうから歓喜と興奮の声が聞こえてきます。どうやら町じゅうの皆さんが、雹を拾って食べている様子。わたしも一気にテンションが上がって、大雨の中庭に飛び出しました。

どっ、どっ、と音をたててそこここに落ちてくる雹を拾っては口にほおり、拾っては口にほおり。けっこうな大きさ(大きいもので3cm角くらい)なので、背中や頭に当たるとピシャリと痛い。雨もだいぶ激しくて、ちょっと先もよく見えない。でもめげない。身をかがめ、拾っては口にふくむ。皆さんのはしゃぎっぷりと言ったら、幕末の「ええじゃないか」はこんな感じだったのでは?と思わせる感じです。

「おんな子どものようにキャッキャとはしゃげないぜ」というおじさんたちも、ちゃっかり子どもに食器やコップを渡し、拾い集めさせています。惜しげもなく豪快に降ってくるので、一分とたたずにコップは満杯です。


ご覧あれ、大雨のなか輝く大粒の雹。

雹は5分ほど続きました。いやぁ、大興奮ですばい。日本で霰(あられ)は見たことがありましたが、雹がこんなに大量に落ちてくるのを見たのは初めて。しかも、大人も子どもも大雨のなか外に飛び出し、地面に落ちた雹を拾ってぱくぱく食べているなんて!知らない人が見たら、なかなかにシュールな光景です。

雹の記念撮影をして、びしょ濡れの服を着替えて、髪をふいて、ふと冷静になってから思ったのでした。でっかい雹のかたまりが頭に直撃して怪我しなくてよかったなぁ、その場合、海外旅行保険は自然災害でおりるのかなぁ、でも自分から危険に飛び込んでいったから無理かなぁ、と。そして、ところで皆さんはなぜ狂喜乱舞してアレを食べていたのかなぁ?と。

お隣のクンバ姐さんに尋ねたところ、「ガリ(ジェンネ語で雹のこと)はアッラーの氷。食べるとたいへん体に良い。あれは薬だよ」とのこと。彼女は、病気で寝込んでいる旦那さんにたくさん食べさせていました。薬なのね。今回は特に多かった、とのことでしたが、ジェンネでは毎年一回くらい雹が降るそうです。

たしかに、こんな暑いところ、皆さん信心深いところで、空からバラバラと氷が降ってくれば、これはアッラーが降らせてくれた恵み、ひいては体によいもの、と人びとが考えるのには納得がいきます。そして実際、工場の排煙も車の排気ガスも無縁なジェンネの雹は、ピュアな感じでたいへんおいしい。甘く澄んだお味とでも申しましょうか。

その後ご飯を食べに向かった大家さんちでは、大家さんがふてくされていました。彼はモスクで礼拝中だったために雹を食べられなかったとのこと。「お前たちもガリ食べたんだろ?なんで拾ってとってといてくれなかったんだよぉ」と奥さんや息子に文句を言いだす始末。降り終えてしばらくしてからも、懐中電灯片手に「ガリ…ガリ…」とつぶやきながら、家のまえの路地を探っていました。嗚呼、ガリ。不惑をとうに越した中年をも惑わす、アッラーの氷。

ガリと言えば、わたしが思い出すのは日本のガリです。お寿司に添えてある、あの甘酢しょうが。何を隠そうわたしはあれがとても好きでして、よくガリ単独でぽりぽり食べていました。業務スーパーには、ガリの業務用パック(300gくらいだったかな)なる好ましいものが売っています。去年の今ごろは、それを肴に、ベランダで月を眺めながらひとりちびちび冷酒をなめる、という貧乏自堕落なことをしていたものです。ガリと言えば思い出されるそのお味。そんな不信心なわたしです。

でも、ジェンネのガリも日本のガリに負けず劣らず、たいへんおいしく、そして貴重なものでした。アッラーよ、おいしいガリをどうもごちそうさまでした。あと、きっと皆が食べやすいように、しかも怪我をしないように、雹の大きさを適度に調節してくだすったのも、どうもありがとう。