2009年6月30日火曜日

女の一生。

こんなタイトルの遠藤周作の小説がありましたね。長崎のキリシタンをめぐる物語。二部のほうはイマイチでしたが、一部「キクの場合」にはなかなかに迫るものがありました。

さて、タイトルは同じでも、ジェンネの女の一生の話。

マリは子どもだらけです。とくにジェンネは人口も建物も稠密しているので、やたらと子どもが目立ちます。決して大げさでなく、1m歩けば1子ども、5メートル歩けば1赤ちゃん、10m歩けば1妊婦。

確かに赤ちゃんはかわいいですし子どもだらけの生活も愉快ですが、同時に、ずいぶん早い年齢からぽこぽこ産みすぎな傾向にあるな、とも思います。「それは"日本に比べたら早い"のであって、こちらではそういうもんなのだからとやかく言うのはお節介かな」と思っていましたが、おばあさんたちにいろいろ話を聞くと、どうも違うみたい。

日本の晩婚化の傾向とは逆に、ジェンネでは早婚化しているそうです。昔の統計が手元にないのでマリ全体の傾向は知りませんが、少なくともジェンネでの結婚年齢は早まりつつあるよう。複数のおばあさんから聞いた話によると、今80代のおばあさんの世代では、30、32歳まで結婚しない人も珍しくなかったそう。それゆえひとりの女性が一生で産む子の数も、今に比べて少なかった、と。

おばあさんの世代は、子どもの頃にはコーラン学校に行ってアラビア語の読み書きを学び、大きくなるとコットンの糸紡ぎや魚の行商などで家計を助け、同年代の女の子たちでかご編みなどしながら夜遅くまでおしゃべりし、また朝になると仕事にでかける――大変だったけどとても充実した日々だった、といいます。毎年弟とコートジボワールまで布の買い付けに行って各地で売りさばいていた人とか、病弱な弟のためによい伝統薬を求めて2年間諸国を回った、など、行動範囲も今のジェンネの若い女性よりぐんと広い。そうして20台後半や30くらいになって、幼馴染や近所の人、行商先で知り合った人などと結婚。2, 3人、多くても4人くらいの子どもをもうけ、仕事も続けた、と。

読み書きそろばんを学び、手に職をつけ、あちこち見聞きして、あるていど大人になってから結婚して、じゅうぶん養えるだけの数のこどもを産み、仕事も普通に続ける。はなしを聞いていると、まぁもちろん大変な生活ではあったと思うけれど、豊かですてきねぃ、と感心します。それが、5,60年くらい前の話です。

ではなぜ、最近のジェンネの子は早婚なのか。おばあさんいわく、「はやくに男を知りすぎるから」。・・・ほぅ。おばあさんの世代では、多くの娘が結婚するまで男性を知らなかったし、男性の側も、若い女性たちとおしゃべりはしても、「手は出してこなかった。それが神の教えだから」だそうです。・・・ほぅ。でも今は、まぁ若人の諸君、かなりゆるやか。日本とそう変わりはしません。

親の世代は、子どもたちがそうしたことに緩くなりつつあることを知ってはいても、それを容認しているわけではありません。自分の娘がすでに男性と関係をもったと知るや、大慌てで婚約や結婚をセッティング。このままこんなことをあちこちで続けられてはたまらない、ということのようです。もしくは、とても若い(幼い)時期から許婚をあてがって、妙なことをしないようにコントロールする、とか。大慌ての結婚・婚約相手が娘と関係を持ったその男性である場合はめずらしく、別の「ちゃんとした」男性を探してくるといいます。

過ぎ去った日々はたいてい美しく語られるものとはいえ、話を聞く限り、昔のジェンネの女性のほうが、忙しくも、行動・交友範囲が広くダイナミックで、わたし個人の好みから言うと、楽しそう。

今のたくさんの若い女の子、とくに10代半ばや後半で子ができて「大慌て婚」をし、そのため学業も途中でやめ、これといった外での仕事も身につけておらず、一日中家でお料理と人の噂ばなしをしながら「つまらないわ、都会に行きたい、テレビの中のヨーロッパの国に行きたい…」などと愚痴って子を見ていると、なにか変だ、と思います。ヨーロッパの国についてほとんど何も知らなかった彼女たちのおばあさんのほうが、ある意味、「西欧近代的な自立した女性観」に近い生活をしていたのではないか、と。(まぁ男尊女卑的な傾向は今よりずっと強かっただろうし、便利な品々は何ひとつなかっただろうから一概には言えないけれど。)

日本や欧米の新聞・テレビ、国際機関の報告では、かなり雑に、「アフリカは子どもの出生率が高い」と言われます。そして女性が子どもをたくさん産む原因は、「子どもは貴重な労働力と考えられているから」とか「早婚の慣習があるから」などと一般化されます。「アフリカの遅れ」が、出生数の高さ、人口爆発の原因のように語られます。

うーん…、どうなのかね?ジェンネに早婚の慣習はなく、話を聞けばむしろ、近年になって早婚化の傾向。また、子どもが貴重な労働力であるなら、なにもかも手作業だった60年前のほうが子どもの数は多いはず。農作業にトラクターを使う現在、ほとんどの子どもが近代学校に通って日中は働けない現在、なぜ8人も10人も子どもが必要なのか。そして養えずに人に預けたり、子が病気になっても薬を買うことすらできないで死なせてしまたりするのか。

おばあさんはそれを、「はやくに男を知りすぎるから」と説明しました。もちろんその前に、80年代の干ばつ以降から現在までつづく農業・漁業・牧畜の困難が挙げられると思います。昔のように、じっとしていても魚が自分から船に飛び込んでくる、放っておいていても稲がすくすく育つような豊かさだったら、今のたくさんの子どもの数も養えるかもしれない。でも、おばあさんが挙げた理由も、うそではないと思います。

世界のいろいろな価値観、ライフスタイルがテレビや映画を通じて簡単に入ってくるようになった今、「結婚まで殿方No!」とか、「ムスリムなんだから神様の言うことを守って操を守れば?」などと女の子たちに強いるのは無理だし、非現実的。でもそれをだらっと放っておいた結果が、彼女たちいわく「つまらない」と嘆く日々、「外国に行きたい」と夢みる日々なのは、どうなのかしら…。

あるおばあさんが、わたしが「昔の話を聞かせくださ…」と言い切る前に、うんうんうんと頷きながら、「ビサンテ、アンドゥンニャ・ゴ・ボーリ、アンドゥンニャ・ゴ・ベーレ」(昔、世界は美しかった。世界は広かった)と言いました。

奇妙に偏って奇妙に肥大化して広がる「西欧化」、「グローバル化」。女の一生を窮屈に感じさせる「早婚化」。女の世界は狭くなっているのか?

昨日、アメリカからジェンネ近くの村に赴任しているボランティアの女の子が、「早くに子どもを産んでしまう女の子が多いから、避妊具とその方法を記したキットを配って、学校でレクチャーをしようと思ってるの!」と力説してきました。もちろん彼女の言っていることはすごくよく分かります。確かに大事で、少しは有効。でも、なんか違う。問題にたいする解決策が、合ってるようで、決定的にずれているような気が、しないでもない…。まぁ端的に言えば、放っておけばいいんでないかしら、と。

ここで書いたようなことやおばあさんたちの若い頃のめくるめくエピソードを彼女に伝えたかったけど、ナイーヴな人類学徒(というほど勉強してませんが)のまとまっていない意見を、うまく英語にできませんでした。彼女の横で、「いや、まぁ、それは確かに必要かもしれないけど…うん、まぁ。でもね、おばあさんが言うにはね…えっと…」などともごもご。ハッキリしない日本人だと思われてるだろうな、と、自分の英語力の致命的な低さと彼女のキラキラさに、苦笑しながらやり過ごしてしまいました。

2009年6月25日木曜日

ドーソは落雁で嗚呼おばあちゃん。




乾季の終わり頃になると、この物体が見られます。長い豆の鞘っぽいもの。前衛的なねじれ具合、まだらな茶色、乾いているくせにペカペカのつや、そして鞘にしては奇妙に長い(40cmくらい)――。ちょっとグロテスクです。

叩くとカタカタ音がするくらい乾いていて固いのです。ペキっと音を立てて鞘を裂くと、鮮やかな黄色い何かがびっしり詰まっています。指でつまんでも崩れないけど少し力を入れると砕けてしまう、それくらいの固まり具合の、ぱさぱさした粉状のものです。

こちらでは、この黄色い部分をおやつとして食べます。さてこの食べ物の名前、ジェンネ語で「ドーソ」、バンバラ語では「ネレ・ムグ(ネレ粉)」と言います。ネレという木の実です。日本語でなんというのか調べてみましたが、分かりませんでした。(ちなみにネレの木のラテン学名はParkia biglobosa、英語ではlotus bean treeと説明されています。)ネレの種は「スンバラ」という調味料の原料にもなります。スンバラはマリのお料理に欠かせない調味料。日本で言う味噌や醤油のような、調味料の王様です。つまり、ネレはドーソとしておやつになり、スンバラとして調味料にもなる優等生。限られた種類・本数の木しか生えないサバンナで頑張っているネレをあますところなく活用する人間も、なかなか優等生です。

初めて赤ちゃんがドーソ食べているのを見たとき、黄色いチョークを食べているんだと勘違い。「あっ!こらこら!!ぺぇしなさい、ぺぇっ!」とつい日本語で大慌てしてしまい、まわりの人はぽかんとしていました。『「ぺぇっ」て何だ?なんでミクはあんなに興奮しているんだ?』というまなざしで。ちなみにバンバラ語では、「黄色」を指す言葉は「ネレムグマ」(ネレの粉の色)です。ともかく、それくらい鮮やかな黄色なのです。

ドーソには種があるので、可食部分はとても少ない。食べるというより、粉の塊を舌にのせてしばし溶かし、種をぺっと出しておしまいです。ほんの~り甘酸っぱいのです。粉なので、食べすぎると口の中の唾液が吸い取られてしまい、のどが渇いてしかたありません。乾燥した土地の乾燥した季節にますます乾燥を誘う食べ物ですが、マリの皆さん、これがお好きです。

わざわざ鞘を割るのも種をはき出すのも面倒くさい、そんなものぐさなあなたのために、種を除いて粉だけ集めたものも売っています。わたしも時々、中庭の奥さん方がやっている粉集めの内職をお手伝いすることがあります。鞘を割き、粉の塊を取り出し、ぱらぱらと指で砕いて粉を集め、種を除く。こうして一本の鞘からとれる粉は、ほんの数グラム。あまりに地味&地道な作業だからなのか、しゃべるとその勢いで粉が飛んでいってしまうからなのか、普段かまびすしい奥さん方も、これをしているときには修業に打ち込むように黙り込んでいます。

この粉を口に含んだときのぽそぽそした感触、とても美味というわけではないけどなぜかくせになって次の鞘に手を伸ばしてしまうこの感覚…どこかなにかに似ているなぁ、とずっと考えていました。…あ、そうだ、落雁だ、らくがんに似ている。落雁の甘みをかなり控えめにして、すっぱさを加えた感じです。

そう気づいた時から、このドーソを口に含むたびに、カラフルに色づけされたお花や葉っぱ型のいかにも田舎っぽい落雁がたんまり供えられた、おばあちゃんちの仏壇を思い出します。おばあちゃんが亡くなる前、病床からこう聞いてきました。「アフリカに行くとやろ?あっちは黒か人ばっかりおっとか?」「うん、だいたいみんな黒かねー」「まぁよかたい、ミクもだいぶ黒かけんね」「・・・そうやね」。

「だいぶ黒か」地黒の孫娘は、こちらに来てもりもり仕事して、ますます黒く仕上がってしまいました。おばあちゃんは植物に詳しかったけん、ネレの木が日本語で何ていうか分かるっちゃなかろうか。まぁともかく、ドーソはなかなかよか味ですばい、おばあちゃん。

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追記:天国のおばあちゃんのお手をわずらわせずとも、ネットで調べたらすぐに出てきました、ネレの木の日本名。「ヒロハフサマメノキ」というそうです。ちょっと言いにくいので、わたしはこれからもネレと呼ぶことにします、おばあちゃん。ちなみにこんな木です→ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%AD%E3%83%8F%E3%83%95%E3%82%B5%E3%83%9E%E3%83%A1%E3%83%8E%E3%82%AD

2009年6月20日土曜日

sweet hometown?



首都バマコから帰ってきました。およそ一週間の滞在でしたが、居候先で贅沢な暮らしをさせていただいたお陰で、どうやらちょっと太ったみたい。ジェンネに戻ってくると、奥さんたちがうれしそうに「わぁ!ミク バカ!」と言ってきます。みく、馬鹿!と罵られているんじゃありません。夏バテで痩せた私を心配していた人たちが、ぽっちゃりしたね!と喜んでくれているのです。ジェンネ語で「バカ」は大きくなる、の意です。

こちらでは、旅行から帰ってきた人に会うと、まっさきに旅先のことを尋ねるのが礼儀です。たとえ日帰りの旅行でも、数年ぶりの帰郷でも。「おかえり~。いつ帰ってきたの?バマコのお友達は元気?バマコの仕事先の人たちは元気?バマコでいっぱい食べた?バマコはどうだった?あ、でもやっぱりジェンネのほうがいいでしょ?」などなど、矢継ぎ早の挨拶。この挨拶をジェンネ語で聞くと、旅から戻ってきたなぁ、という感じがします。

たいていの顔見知りの人はわたしにジェンネ語で話かけてきますが、フランス語の人もいます。昨日、あるお兄さんからフランス語で「Bamako est doux?(バマコは甘い?)」と聞かれました。ある都市や町村を「甘さ」で判断したことはないので、不思議な感じがしました。なんで「甘い」っていう表現を使うんだろ?

直後に同じ内容の挨拶を別の人からジェンネ語でされて、「甘い」の謎が判明。Bamako est doux? は、ジェンネ語の「バマコ ア カン?(バマコは良かった?)」を彼なりにフランス語に訳したもののよう。ジェンネ語で「カン」は良い、甘い、おいしいの意味。「良い」よりも「甘い」の意味で用いられるほうが多いように思います。だから彼は、「カン」をフランス語に訳すときに、「良い」(bon)でなく「甘い」(doux)を採用したようです。彼が言いたいことをフランス語で表現するならば、Bamako est bon?と言うべきだったのです。

でも、この表現、なんだかいいじゃないか。「訳語の選択が間違ってる」だけで片付けるのはもったいない。どこか詩情が漂っているじゃないか。

 Bamako est doux? Mais Djenné est plus doux?
 (バマコは甘かった?でもジェンネのほうがもっと甘いでしょう?)

ジェンネはどちらかというと人の気質も環境もシビアだし、首都に比べてはるかに田舎です。でも、古都の誇り高きジェンネっ子にとって、わが町ジェンネはうら若き首都バマコより「甘い」のです。きっとそうなのです。

甘美な町、かぁ…。

うーん…。よそ者のわたしにとってジェンネの町は、どこかタイトに辛く、たまにほのかな甘さや優しさが顔を出し、しょっぱい思いもしつつの、それらの相乗効果でそこはかとないうまみが感ぜられ――という複雑な味。まぁその味の複雑さが、深みが、「カン」=甘い、ということなのでしょうけれど。

そんなことを感じた私のなかに流れた歌はもちろん、あの蛍の唄。♪ほ ほ ほたる 来い こっちの水は甘いぞ ほ ほ ほたる 来い♪――思えば蛍のようにふわふわとジェンネにやってきて、水が甘かったからか何なのか、結局まだここで仕事してるなぁ。やはり甘美なのか?ここは。

写真:まぁ町の気質はともかく、ジェンネのモスクのこのお姿は、文句なく甘美と言えましょう。

2009年6月15日月曜日

マリのバスの愉快。

所用で首都のバマコに、数日間の予定で滞在しています。

ジェンネからバマコに来るときには、長距離バスを利用します。7,500CFA(乗車賃+手荷物代、約1,700円)也。約11時間の移動です。バスの車自体は、エアコンや扇風機は当然なし、パンクや故障はしょっちゅう、外国からのおさがりバスのため座席はすでにガタガタ。快適とは言いがたい状態ですが、バスの車内の雰囲気がなかなか興味深い。マリの人びとのすてきな面、かわいらしい面が如実にあらわれている空間だと思います。11時間灼熱の長距離をあまり感じさせない、わたしの好きな空間です。

まず、乗客の荷物。実にさまざま。大量の干し魚(だいぶ臭う)、100%シアーバター(だいぶ臭う)、四本の脚をまんなかでキュとしばられた羊など(だいぶ暴れる)。どれも首都では田舎より高いので、首都に住む親戚へのお土産や結婚祝いなどに、ふんぱつしてたくさん持って行くのです。ここらへんの気前のよさと、臭いだなんだと互いに気にしないおおらかさ、いいものです。

そして乗客の服装。田舎町から首都に行くということで、皆さん、特に女性はおめかし。車内はとても暑いので、11時間も乗っているとせっかくの盛装が汗だく&しわしわになると分かっているのに、皆さん一張羅。気合入ってます。先日もわたしがシンプルなワンピースを着て乗っていると、「あんた、そんな地味な格好でバマコに行くの?」と隣のおばさんに叱られました。ここらへんの、張り切っていることを一切隠さないストレートさと、裕福でなくともいつもちょっとした身奇麗さを心がける意気が、かわいらしいです。

長旅ですので、お腹が空きます。バスがひとたびトイレ休憩や礼拝のために停車しようものなら、周辺の町や村の人びとがどっと押し寄せて、車内まで水や食べ物を売りに来ます。売る側も買う側も、短時間の停車時間にやりとりしなくてはいけないので必死です。駅弁の売りのやり取りみたいです。カットしてあるパパイヤ、ジュース、お菓子、キャッサバ(生でぽりぽり食べる。うまい)、焼き魚やグリルした羊肉など。

それぞれが食べ物を手に入れると、まわりの席の人にも(半ば強引に)勧めます。あちこちで「ケレ・タ」「アカイン、アカイン」「ケレ・タサ~!」「ハヤ…ケレンドロン、イニチェ」(「一個どうぞ」「いやいや、結構です」「取りなよ~ぉ」「じゃぁ…一口だけ。ありがとう」)というやり取りが繰り広げられます。こうしておすそわけしてもらえるので、11時間の長旅でも、自分で食べ物を買うのは1回くらいで十分です。

車内にはたいてい、大音量で音楽や小噺が流されつづけています。眠っている人もいますがそれはおかまいなし。だいいち「騒がしくて眠れない」という感覚がこちらではあまりないように思います。眠けりゃまわりが騒々しくても眠れるもんです。ドライバーのお兄さんおすすめの歌手やいま流行の歌、グリオ(口頭伝承ミュージシャン)がギターを爪弾きながら語る面白歴史エピソードが、エンドレスで車内に流れます。暑さのためカセット・テープが伸びきっていて、すこし調子っぱずれに聞こえるところがまた、旅情を誘います。

さて、長距離バスで重要なのがトイレ。もちろん車内にはありません。赤ちゃんは座席やお母さんのおひざの上でおまるに腰掛けて用を足しています。たまに隣からプゥンと臭ってきますが、ぐずっていた赤ちゃんのスッキリ!という表情を見ると、すんなり許せます。大人はたまに停車するタイミングで、そこらへんで用を足します。バスが停まると皆ほうぼうに散っていき、絶妙に互いの視線が合わない方向を向きながらスッキリ。ドライバーはさっさと先に進みたいものだから見切り発車。のんびり用を足していて、うっかり置いていかれる人もいます。でも大丈夫。まわりの人が気づいて、大声で「あっ!イジョイジョ!チョゴロバ・アマソロ!」(あっ!待って待って、あのじぃさんがまだ戻ってない!)などと大合唱してドライバーに知らせてくれます。なぜ皆さんがいつも、発車しかけたその時に誰かの不在に気づかず、バスが数百メートル進んでからようやく気づくのかは、チョット疑問です。

ちなみに私も一度置いていかれたことがあります。大地で用を足していて、自分の乗っていたバスが荒野のなかの一本道をすぅっと遠ざかっていく光景は、不思議と焦りを感じさせない。あ、あ、行っちゃった…という感じです。(もちろん誰かが気づいて、戻ってきてくれました。)

長距離バス道中のこうした人間くささ。マリの人々の、公共の場における、周りを互いに巻き込みつつ適当に無関心な独特の親密さ、嫌いではありません。楽しくて久々にのんびりできたバマコ滞在を終えて、あさって早朝ジェンネに戻ります。もちろん、愉快なバスに揺られて。

2009年6月8日月曜日

おばあさん、ご冗談を。

少し雨が降りました。まだ本格的な降雨ではないので油断は禁物ですが、雨がまだ降らないことを心配していた住民はひとまずほっと一安心。それにしても、雨が降ってちょっと涼しくなった途端、人びとの表情や態度が、目に見えて緩やかになります。おもしろいくらい、がらっと変わる。雨が降ったら降ったで、舗装もない泥の町はどろどろのぬちゃぬちゃになり、マラリアを媒介する蚊も増えて皆ぶぅぶぅ文句を言うのですが、それでもやはり、雨は喜びをもたらす恵みなんだな、と実感します。

さて、今日はちょっと変な話。

いつも陽気にあいさつしてきてくれる近所のおばあさんがいます。けっこうなお年だと(80は過ぎている)思うのですが、路地ですれ違うと、やぁやぁ、という飄々とした感じで、とことこと寄ってきてくれます。いつもほのかに干し魚のにおいがする(そしてたいてい干し魚の入ったかごを頭に載せて歩いている)、漁民のおばあさんです。

こちらの挨拶は長くて、「おはよう」「元気?」「ご家族はどう?」「旦那は元気?」「仕事の調子は?」「子どもは?」「中庭の人たち(長屋の同居人のこと)は?」
「よく眠れた?」「なんかいいことあった?」などと矢継ぎ早に続きます。まぁ形式化された挨拶なので誰もいちいち正直には答えず、「あ、はい」「好調です」「ぼちぼち」「神様のおかげで」「ええ、とても」など、こちらも矢継ぎ早に、ぱぱぱと答えます。そういうもんなのです。

昨日も、おばあさんと路地ですれ違い、ぱぱぱっと挨拶していました。たまたまそのときにおじさんが通りすがり、わたしを見ながら、げらげら笑います。なにがおかしいのかしら、おばあさんと挨拶してるだけなのに。ちょっとムッとして、「あの、何がおかしいんですか?」とおじさんに聞くと、「娘さん、あなた、ブテが好調なのかい?」。

そのおばあさんは、わたしに会うと毎回、たくさんの質問挨拶に混ざって、「ブテは元気?」と聞いてきます。私はこれも体調か何かを訪ねる何か形式化された挨拶の一部なのだと思っていて、たいして気にせず、いつも「ぼちぼちです」とか「ええ、問題なく」とかなんとか適当に答えていました。昨日もそう聞かれて、「あ、はい、好調っす」などと答えた覚えがあります。

どうやらその「ブテ」に問題があるらしい。まだ笑っているおじさんに、「ブテって何ですか?」と聞くと、おばあさんがふいに私の下腹部あたりをちょろっと触ってきて、「ここ」。え~っ、そこのことなんですか…?分かった途端に発音しづらくなりましたが、ブテはつまり、ジェンネ語で女性器のことだそうです。おばあさんは毎回わたしに、その具合を聞いてきていたのです。

宮本常一の『忘れられた日本人』にも、かつての日本の田舎での、おばあさんたちのあけっぴろげで露骨な性的冗談とか性的比喩の話が集録されていましたが、まさにそんな感じです。おばあさんの特権、女同士の粗野な戯れと言いますか、なんと言いますか――。

それにしても、いつも何も知らず、その質問にすました顔で「とても好調です」とか「おかげさまで」とか答えていた自分が、とても恥ずかしい。ブテの意味が分かって、照れ隠しにおばあさんに「もぅ、何で(そんなこと言うんですか)?」と笑いながら聞くと、おばあさんは何くわぬ顔で、「え、あなた、ブテもってないの?女なのに?」などと聞いてきます。

…おばあさんたら、お戯れ。

2009年6月3日水曜日

お母さんモスク。





お母さんモスク。

からっからの気候です。すべてのものが乾いてる。例年だとすこしずつ雨が降り始める時期なのですが、その気配なく、住民たちは「このまま雨が降らなかったら大変だ…」と心配気味です。

***
さて、今日はジェンネのモスケの話をします。

ジェンネのモスクはたいへん有名です。泥でできた世界最大の建築物。ジェンネ語で「ジンガレィ・ベル」(大モスクの意)と呼ばれます。高さ約20m、敷地は縦75m×横75m。現在のものは、13~19世紀に何度か建て直されながら同じ場所にあったモスクを参考に、1907年に再建。メッカの方角(ジェンネではほぼ真東)を向いて建っています。

ジェンネのモスクは、美しい。その佇まいが、とても好き。

建築物を見て、「でっか!」とか「手がかかってますねー」「巧みな伝統の技やな」などと思うことは、よくありますが、「あ、好き…」としみじみ感じたのは、このモスクが初めて。建築物を見ての感想でなく、もはやちょっとした思慕です。

ここからはその思慕と私の空想癖からくる描写ですので、ジェンネのモスクの情報としてでなく、「私にとってのモスク~妄想編~」としてお読みください。

わたしにとってのジェンネのモスクの美は、万人の目を引く美男・美女のそれというより、母性的な美しさ。すこし気が強くてたまに厳しくて、かわいらしいところもあって、でも根底には常におおらかな包容力、しなやかな強さがあるような、そんな母性的なるもののイメージ。お母さんモスク、もうすぐ102歳。ちょっとお年をめしましたが、お元気そうでなによりです。

特に好きな彼女の姿のは、朝5時すぎ、昇ってくる朝日を真正面から浴びて、すくっと澄まして姿勢正しく立っている様。それと、夕とも夜ともつかぬはざま、紫のかすかな陽日を背に、町の人びとが行き交う広場を悠々と見守っている様。

ネットで旅の感想を書き込む英仏語のサイトに「ジェンネのモスクは想像していたより小さく見えてがっかり~」とか、「フォトジェニックなのか、実物はいまいちでした」といった書き込みがたまに見られますが、チッチッチ。

甘いね、違うのだよ。普段のお母さんモスクは、つつましいのだ。素の姿で、すとんとそこに佇んでいるのです。でもひとたび観光客がカメラを向けたなら、ちょっとサービスして、カメラ目線でお澄まししてくれるのです。だからフォトジェニック。そういうわけなのです。

ジェンネの住民のお母さんモスクへの愛着も、とても強い。

でも「すごいっしょ~!?うちのモスク!」という揚々とした自慢がなされるわけではありません。彼らにとってはここはアッラーへの礼拝の場なので、まして擬人化して「お母さん」などと言うはずもなく。当然ですが、このモスクがここにある、ということがジェンネっ子にとっての日常風景なわけで、特にこれみよがしにその愛着が言語化されたりするわけではないのです。

それでもなんだか、『あ~、皆さん大好きなんですね~、お母さまのことが…うんうん』
としみじみ目を細めたくなるような、ちょっと涙が出そうな、そういう素敵な光景がよくみられます。

【写真】


1)ジンガレィ・グングの様子。日本語の「おなか(お腹-お中)」と同じで、ジェンネ語では 腹のことをグング、ものの内部のこともグングと言います。だから「ジンガレィ・グング」はモスクの内部\お腹。さしずめお母さんの胎内です。(現在、原則的に非ムスリムはモスク内立ち入り禁止。この写真は、関係者に許可を得て彼らと一緒に立ち入り・撮影しました。)

2)娘たちは、別にお母さんに関心がないわけではないのです。いちいち甘えなくても、母娘はツーカーの仲だからOK。今晩の献立を考えながら、いそいそとお母さんの前を通過します。女はいろいろ忙しいんす。お母さんもそれを分かってる表情。

3)雨季の前、年に一度の泥の塗り直し作業。住民にとって最大のお祭りです。町の若者が競うように、我先にとお母さんをお化粧直し。女の子は塗る泥が乾かないように、川べりからバケツで水を運んでは、混ぜ混ぜします。

4)町の男性はよくこうして、モスクの壁に腰掛けて夕涼み。リラックスしてぷらーんと投げ出した皆さんの足がかわいい。お母さんは黙って息子たちをひざに乗せてくれます。

***

ここ数年来、このモスクをめぐっていろいろな変化が起きています。

外部の援助団体やマリの行政が、世界遺産に登録されて有名になったお母さんモスクを、おもむろに甲斐甲斐しくお世話し始めました。住民たちはモスクがお金をかけて若返るのを喜ぶ一方で、「ぼくたちのモスクなのに…」「ぼくたちの手でずっと守ってきたのに…」と困惑の表情も。

お母さんモスク、あなたはどうお考えですか。建て直しを経たとはいえ800年もずっとここにいるのですから、ご自分をとりまくこうした急速な変化すら、「長く居ればこういうこともあるわよ」とゆったり構えてるの?

あす4日は、年に一度の塗りなおしの日です。