2011年1月20日木曜日

ジェンネ・ブログはここでひと区切り

数か月ぶりの投稿で、本ブログ終了のおしらせです。

このブログは、主にマリ共和国のジェンネで生活しているあいだの日常を書き残すことが目的ではじめました。祖父母や親、友人への近況報告も兼ねて。日本に帰国してからもぼつぼつ更新はしていたのですが、いかんせん当初の目的からはずれていたので、こまめに更新せず。

というわけで、本ブログはこれにて終了です。今後もこれまでの記事は残しますので、気が向いたときに、たまにのぞいてくださいませ。

2010年9月27日月曜日

国勢調査 in マリ/日本

ひさしぶりの更新です。日本であまりに地味な生活をしているので、たいして書くことがないのです。そろそろこのブログも閉じようかしら、と思いますが、書きたいことが出てきたので、更新します。

国勢調査のときがやってきましたね。まだまだ残暑の厳しかった今月半ば、家にいると、国勢調査員のおじいさんが我がアパートにもやってきました。「9月末から調査票を配りますから、よろしくお願いしますね」。わたしは普段、玄関のドアを開け放っています(暖簾はかけているし、日が暮れると閉めるよ)。女性の一人暮らしなのに物騒だと言われますが、風が通らないのが息苦しくて苦手なの。そんなわたしを、調査員のおじいさんは「使える!」と思ったのか、矢継ぎ早にご近所さんについて質問してきます。「お隣は空き家?」「隣の隣は何時ごろご在宅か知ってるかね?」「真下の家は表札があるのに郵便物がたまってるけど、引っ越したの?」などなど。国勢調査員なんだから、どこに人が住んでいてどこが空き家なのか事前に知っていそうなものですが、これも個人情報保護法のせいでしょうか。おじいさんが自分で聞いてまわって調べるしかないそうです。これはこれは、ほんとうにご苦労様です。お隣さんたちに嫌がられないていどに、知っていることを答えました。

同じ国勢調査でも、マリと日本ではずいぶん違うなぁ、と思います。

去年、マリのジェンネに住んでいたときに、マリでも国勢調査がありました。10年に一度の国勢調査。学校の先生やお役人の人が、国勢調査票を持って家々をまわります。マリには文字を書けない人・公用語のフランス語が読めない人も多いので、国勢調査票は調査員(役所の人や学校の先生)が聞きとりして、記入していきます。

あのときの、ジェンネのみんなのそわそわ感、どきどき感といったら、とってもほほえましかった。顔の見えない、そこに住んでいるかすら分からない「国民」を把握しようとする日本の都会の国勢調査とは違い、顔が見える人たちを、「一、二、三、・・・」と数え上げるような、visibleなものでした。

ジェンネの人たちは、事前にラジオや町の集会、口コミで国勢調査が行われることは知っていたので、皆、その日が近付くと、ちょっと緊張。いよいよ調査員がやって来ると、路地で遊んでいるチビっ子たちや、川でお皿洗いをしている娘さんなども、家に呼び戻されます。別に全員がそろわなくても、大人が代表して答えればいいのですが、なんとなく普段とは違うシチュエーションに、家族全員集合。これはなぜかどこの家でも見られたことで、ほんとうにおもしろかった。

6か月以上マリに滞在している外国人も国勢調査の対象ということで、わたしも大家さんに呼ばれました。玄関間には、家長の大家さんを中心に、奥さんや子どもがずらりとおりこうさんに座っています。家族写真でも撮るのか?といったおすまし具合です。国勢調査員は、識字教室の先生をしている近所のお兄さん。いつも見かける近所のお兄さんなのに、国勢調査員のカバンをもって、首から名札をぶらさげて、調査票片手に仰々しくやってきたもんだから、皆、かなり緊張しています。「おい、イスが足りないぞ!それぞれに身分証明書をちゃんと持ってこい!」など、お父さん、ちょっと張り切る。お母さんも、遠慮する調査員に「ちょっと、これ、食べていきなさいよ!いらないの?一口でもつまんでいきなさいよ!」と、サツマイモの炊いたのを強く勧めつづけます。

調査項目は、日本の国勢調査とあまり変わりません。名前や年齢、職業などを聞いていきます。わたしの場合、マリに住んでいる期間や目的も併せて尋ねられました。わたしも大家さんに言われて、「マリでの調査許可書」とかパスポートを持って臨みました。質問に答えながら、「ちなみに、マリ滞在のためのビザはこれで、許可書はこれですっ!」と張り切って提示したら、「あ、提示の必要はありません」とあっさり言われてしまった…。大家さん一家につられて張り切ってしまったじぶんが、ちょっと恥ずかしい。

特徴的なのは、「煮炊きに使用しているかまどの種類」を聞かれたこと。たしか、「屋外で薪や炭を使う石や焼き物製のかまど」or「鉄などでできた改良かまど」or「ガスボンベを使用するコンロ」といったなかからの選択だったと記憶しています。確かに、マリの首都バマコでは、ガスボンベを使用する家庭も増えてきているようです。田舎ではまだまだ、中庭で薪や炭を使う、日本の焚火やキャンプみたいなかまどが一般的ですが。マリ政府は、そこらへんの変遷を、人口と合わせて調査しかったのでしょう。

大家さんちでは、そわそわとちょぴり浮ついたまま国勢調査が進んでいきました。いろいろ脱線する大家さんや奥さんの話を上手にかわしながら、調査項目を全部たずね、記入していく調査員のお兄さん。すべての質問が終わってお兄さんが帰ろうとするも、大家さんの奥さんは、まだサツマイモの炊いたのを食べろ食べろとごり押ししていました。おそらく、朝からこうしていろんなところで奥さん方から食べ物を強く勧められ、すでにおなかいっぱいであろうお兄さん。それでも、「じゃぁ、一口だけ」と、すこしつらそうに食べていきました。大家さんの「はい、終わったから、それぞれ仕事や遊びに戻りなさい」という声で、解散。

どこの国の国勢調査員も大変ですね。

でも、日本の国勢調査は、見えない国民が見えないままに数字になって、紙の上で不気味に管理されていくようで、とても息苦しい。日本に生まれながら、ときどき日本が強烈に不気味でいびつに感じられるのは、こういう瞬間です。

2010年6月3日木曜日

細い声。

突き抜けた張りのある声で、すこーん!唄う歌手も好きですが、どこか哀しい細い声も、とても好きです。きょう、ひさしぶりにマリでよく耳にしていたこの曲が聞きたくなってYoutubeで探したら、あったあった。

マリの国民的歌手のひとりNahawa DoumbiaのMalailaという曲です。2008年ごろに、マリで大ヒットしました。マリでいちばん話されている、バンバラ語で唄われています。はじめてこの曲をマリの国営ラジオで聞いたとき、この声のかんじから、てっきり15歳くらいの女の子だと思っていました。その後、大家さんちのテレビで彼女が唄っているのを見たときにびっくり。けっこうな貫禄じゃないか。

この曲の歌詞の内容は、アッラーをたたえたり、争いごとはいけないと教訓を言っていたりするものです。わたしはムスリムではないですが、この声とゆったりしたメロディーを聞いていると、落ち着きます。Doumbiaという名字は、亡くなった大好きな友人の名前とおなじです(マリにはごまんといる名前ですが…)。亡くなった彼女も、よくこの曲のようにアッラーをたたえることばを常々口にしていたので、この曲を聞いていると彼女を思い出してしまい、ちょっと涙が出たりします。でも、目をうるませながらふと映像を見やると、どうしようもなくいとおしい、垢ぬけない「マリっぽさ」が出ていて、ちょっと可笑しくもなります。

Nahawa Doumbia et Dousou Bagayogo "Malaila"



2010年3月7日日曜日

タイミングの妙、社会の妙。

あちこちで報道されているので、みなさんご存じだと思います、このニュース。奈良県で5歳の男の子が、親から食事を与えられずに死んでしまった、というニュースです。報道によると、何度か通報や家庭訪問があって、近所のひとも「なんか異様だ」と感じていながら、踏み込めなかったのだとか。

こういうニュースを聞くたびに、しばらく暮らしたマリ共和国のジェンネでの長屋生活を思い出します。同じ長屋の右隣の一家のお母さんは、子どもにとても厳しい人でした。やんちゃざかりの二人の小学生の息子は、たびたび、お母さんにバシバシ叩かれていました。そういう厳しいお母さんの子どもにかぎって、おっちょこちょい。市場におつかいに行く前に、「落としちゃだめだよ」と何度も言いきかされて握りしめていた小銭を、なぜだか落としてくる。お母さんが中庭に唐辛子を天日干ししているすぐ横で、うっかり立ち小便をする。朝、「ほら、学校に遅れるだろ!」と何度起こされても、まったく起きない。どれも子どもらしいといえば子どもらしい、ほほえましい失態です。が、ここの息子たちは、「怒りっぽいお母ちゃんを怒らせるツボ」を、わざと刺激しているんではないかと思えるほど、一日に何度もこういう失態を繰り返すのです。

さて、そういう場合、お母さんは猛烈に怒りだします。子どもに話して聞かせる方針のひとももちろんいますが、ここのお母さんは、1分ほどことばで激しくしかりつけた後、有無を言わさずビシバシです。お母さんが木の枝(けっこう太い)やゴム紐(トラックの荷台に荷物を括りつけるのに使うような幅の広いやつ)を握ったが最後、子どもは『やられる!』と察知します。おうちのなかから、長屋の共有スペースである中庭に飛び出してきます。

わたしを含め、同じ長屋の大人たちは、まずは静観。おつかいの途中で友だちと泥遊びをしたために小銭を落としたこの子、干してある唐辛子のすぐ横で立ち小便をしたこの子、起こされても起きないこの子が、まぁ、いけないのです。だから、まずは静観です。でも、ここのお母さんは、子どもにたいしてはなかなかに感情的なひと。近所もひともそれは分かっています。だから、彼女が怒りはじめると、「おぉ今日はなにをしでかしたんや」という感じで、部屋のなかから耳をそばだてたり、中庭に出て行ったりします。

さすがに、子どもが木の棒で腿を叩かれている姿は、痛々しい。あれは痛いやろうなぁ、とこちらまで緊張からドキドキしてしまいます。「叱る」を通り越して、もぅコントロールが利かなくなって怒り狂うお母さんの形相も、なかなか恐ろしい。ちょっとしたホラー・スペクタクル。そこで『あ、今日はさらにエスカレートしそうやな』と察知すると、数十秒たって、長屋の大人が止めにはいります。もしくは子どもが、さささっとお母さんから逃れて、ほかの大人のところに助けを求めて駆けてきます。

この光景を最初に見たときには、とても驚きました。

棒を振りかざして怒り狂うお母さん。ギャー!と泣き叫ぶ子ども。ころ合いをみて止めにはいる長屋の大人。ほっとしたようにほかの大人のもとに駆けて抱きついてくる子ども。はぁはぁと息を切らしながら「だって、このダメ息子が、わたしが唐辛子を干してる傍で、小便を、小便をしたんよ!唐辛子にかかるやろっ!!」と皆に説明するお母さん。「まぁまぁ、もうええがな」と、彼女の肩を押さえながら、手にしている棒をさりげなく取り上げる近所の大人。―――すべてが、絶妙なのです。加減といい、タイミングといい、それぞれの役割分担といい、絶妙。毎回繰り広げられる体罰スペクタクルの予定調和、というわけでもないのです。やはり毎回、お母さんの怒り狂う度合いは違うし、子どもの反応も違うし、それに合わせて、割って入るタイミングも違う。でも毎回、絶妙なのです。

この長屋に住みはじめて2か月もすると、わたしもようやく、このタイミングをつかめるようになってきました。ちょっとタイミングを間違えるといけません。一度、「お母さん激昂3秒前」くらいのタイミングで、わたしのところにビクビクと逃げ込んできた子どもを、うしろにかばって守ってあげたことがありました。すると子どもは、『今度なにかしでかしてお母ちゃんに叱られそうになったら、その直前にミクのところに逃げれば叱られずに済む』と狡猾にも思ったようです。数日後、またお母さんが激昂しそうな5秒前に、うそ泣きしながらわたしのところへ「ミク~ぅぅぅ!!」と走ってきました。明らかに、じぶんが悪いことをしたと知っているのに、うまいこと叱られ回避をしてきました。これではいけません。

たしかに、棒で叩くのはいけない。それに、ここのおっちょこちょい息子たちがしでかすことは、わたしが母親ならそこまで怒るほどの失態ではない。でも、ちょっとしたことでも激しく叱りつける、というのが、ここのお母さんの方針なのです。そして、叱っているあいだに、だんだんエスカレートしてしまう、というのが、ここのお母さんのちょっと困った性格なのです。「見境がつかなくなるのは、母親として、大人としていけないのでは?」と思われる方もいらっしゃるでしょう。彼女の名誉のために書きますが、彼女は激昂していないときは、とても賢い母親です。どんなに貧しくてもお金を工面して学校用品を買い与えるし、じぶんは何年おなじ服を着ていても、お祭りのときには子どもの服を新調するし、食べざかりの子どもにごはんをけちることは決してしないし、ひとの悪口は決して子どもの前では言いません。でもいかんせん、怒ると乱暴になる。

でも、かといって、ここの息子がお母さんに叩かれて大けがをしたことはありません(すり傷とかみみずばれくらいはたまぁにできてるけど)。わたしを含め、止めに入った長屋のほかの大人が、とばっちりをくらったこともありません。子どもをかばった大人が、そこのお母さんに文句を言われたこともありません。なんというか、いろいろと絶妙に、コントロールできているのです。セルフ・コントロールできない人のために、まわりがうまいことコントロールしてくれるのです。そしてときには、いつも近所のひとに子どもへの体罰を止められているこのお母さんが、別の長屋のお母さんが子どもを叱って激昂しているときに、「あんた、それはやりすぎやっ!」などと言って、止めに入ることもあるのです。(これを見たときにはさすがに、「あなたが言えることではなかろう…」と可笑しくなりましたが。)

先日の奈良の事件も、これまできっと何百人もいた、親からの虐待のために亡くなった子どもたちも、こういう絶妙なタイミングを心得た大人たちがまわりにいたら、きっとこういうことにはならなかったのだと思います。親になったからといって、心穏やかに子どもをいつくしめる人ばかりではない。子どもを育てられない性質のひとに子どもができてしまうことは、ままあることだと思います。親としての力量に限らず、あなたもわたしも、どこかでいろいろと、ダメな人間なんだと思います。だからこそ、絶妙にまわりが制してくれる、絶妙にまわりが鼓舞してくれる、という関係が、とても重要だと思います。そして、今の日本で、こういう関係が生きる社会をもう一度つくるのは、とても大変なのだということも、よく分かります。でも、どうにかしたいな、そのためにはじぶんはなにをできるかな、などと、こういうニュースを聞くと、強く思います。

すこし前に、『Big Issue日本版』135号(2010年1月15日発行)で、雨宮処凛が、似たようなことを書いていました。(彼女は「大阪ホームレス会議」をトピックに、もっと端的で巧みに、そしていくぶんラディカルに書いていましたが。)いわゆる「ダメ」なところのある人間だって生きられる世の中というのは、たぶん、みんなにとって居心地がいいはずだ、という内容です。興味のある方は、駅前などで立ち売りされていているこの雑誌を買って読んでみてはいかがでしょう。

2010年2月23日火曜日

Yamore

ここ数日中にやらなければいけないアフリカ学会発表の準備をいさぎよく放棄。朝から窓を開け放ち(きょうは温かったけんね)、聞きたいCDをかたっぱしからかけていく、という、贅沢な時間を過ごしました。ながら聞きではありません。ただただ、音楽を聴くのです。

年を重ねると音楽を聴くことが少なくなる、と言う人がいます。どっこいわたしは、むしろその逆です。年をとるにつれ、10代のころはいまいち分からなかった歌詞に共感できたり、子どものころはピンとこなかった音や旋律に反応したりします。それに、年とともに生活範囲や目にする風景も増えてくるので、それに合う音楽や、それを思い起こさせてくれる音楽というのが増えている気がいたします。

毎週ロッキング・オン社の音楽雑誌を買って、新譜やアーチストのインタビューをいちはやくチェック!ということはしなくなりましたが、インターネットのおかげで、新旧とわず、先入観をもたずに「おぉこれはよいですね!」というものに、素直に反応するようになりました。浅川マキのかっこよさは、この年になってようやく、分かりました。

さて、きょうはこの曲も聞きました。"Yamore"


この曲は、わたしが初めてマリに行った2004年に、マリで流行っていた曲です。これを聞くと、首都バマコの、もわぁんとして密度の高い空気の味を思い出します。空気ににおいが、あるのです。濃厚なにおいがね。雑多でむきだしで小汚くて狡猾な感じ、でもどこか洒落てて魅力的な町なのよ、マリの首都バマコ。

ヴォーカルはふたりです。おじちゃんみたいな見た目のおばちゃんCesaria Evoraという方は、アフリカ大陸の西っかわ、大西洋に浮かぶ島国カーポ・ヴェルデ出身の歌い手さんです。とってもよい声。お昼からビールを出すもんだから、近所のダメ&気のいいおじちゃんの愉快なたまり場になっている漁師町の食堂で、女店主をしながら、ふんふんと粋な声で歌を口ずさんでいるような、その風情。すてき。

もうひとりは、マリが生んだスーパースター、Salif Keita。このPVのなかの、短いドレッド・ヘアの白いひとです。「え、西アフリカのマリ人なのに、黒くないの?」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、かれはいわゆるアルビノです。生まれつき、メラニン色素が少ないひと。「かれがマリの大統領選に立候補したら、絶対に当選する」と冗談で言われるくらい、マリのスーパースターです。

その両国のスターが競演したのが、この曲。ポルトガル語(カーポヴェルデの公用語)とフランス語(マリの公用語)、そしてバンバラ語(マリの7,8割くらいのひとが話せる言語)で歌われています。PVに出てくるモデルさんたちも、とてもかっこいいですね。このシュっとした感じ、わたしと同じ、ヒト科ヒト族ヒトなのかしらん。

2010年2月8日月曜日

帰国しました。

すこし遅れましたが、ぶじに日本に帰国しました。

というわけで、これからは、ジェンネでのつれづれ日記ではなく、日本でのつれづれ日記に内容が変わることと思います。といっても、マリに降り立ったときも、久しぶりの日本に戻ってきたときも、たいした違和感もなくすごしてしまう鈍いわたし。「差異」に着目してこそはじまる人類学をやろうとしている人間が、こんなことでよいのかしら、とときどき思うほどです。

2010年1月25日月曜日

青い、赤い、黒い。

ネットがつながらない環境にいたので、ブログがとまっていました。ご心配してメールをくださった皆さま、ありがとうございました。

少々お疲れで目の下にくまができていますが、元気です。でもこのくま、なんか最近いっつもある。疲れがどうのという問題ではなく、さては年のせいか。ちなみに、黒人のひとも、目の下にくまができると分かります。肌の色の黒さと、くまのような沈んだ黒さは、またちょっと違うものね。

こんな話をしていると、小さいころテレビで見たサンコンさんのギャグを思い出します。サンコンさんはマリのとなりのギニアのご出身だそうです。なにか驚いたことがあったとき、「あぁびっくりして顔が真っ青になっちゃったよ!」とサンコンさんが言って、まわり(もしくは本人)が「黒いから分かんないよ!」とツッコミをいれて、わっはっは、という、これぞ文字通りのブラック・ジョーク。そのころは、「ほんとやー、黒いひとは青くなっても分からんなぁ」などと思っていたのですが、こちらに来て分かりました。意外に、分かるもんやね。びっくりしたりショックで青ざめている黒人さんの顔は、わたしにはやっぱり、「青ざめて」見えるのです。

10月ごろ、町から3kmくらい離れたところにある、ある農家のひとの田んぼに出かけていました。土地にかんする話をうかがうためです。おじさんとその甥っ子が、作業をしながらいろいろ話してくれます。すると、わたしと同年代くらいの甥っ子さんの携帯が鳴りました。はいはい、と電話にでる彼。『まわりは見渡す限りの野なのに、携帯は鳴るんやねぇ』とのんびり待っていると、電話に「うん、うん…うん」とだけ返事をしている彼の顔が、なんだかみるみる「青ざめていく」。

どうやら、妊娠中の奥さんが産気づいた、とのこと。予定よりもずいぶん早いので、心配になったようです。黒い彼の顔は、「青かった」。なんというか、黒くつやのある肌が、すこし色が薄くなってくすむ気がするのです。甥っ子さんは、あわてて自転車を飛ばして帰っていきました。(あとで心配になってたずねたところ、赤ちゃんは無事生まれ、奥さんも元気とのこと。ほっ)

でも、黒人の人が「赤く」なっても、わたしにはあんまり分かりません。かっとなって喧嘩している男の人、恥ずかしがってもじもじしている女の子、緊張のあまりぽわぁっとなっている女の人、など、いろいろな「赤くなる」シチュエーションを見てきましたが、赤くなっているのは分からない。かっとなっている人のこめかみがどくどく脈打っていたり、もじもじしている子が足をくねくねさせたり、緊張しているひとの息があがっていたりするのは、「赤くなる」わたしたちと一緒ですが。もじもじしている子どもって、なんであんなにかわいらしく、足をくねくねさせるんでしょうね。わたしもよく、調査で言いたいことを言おうとしてなかなかタイミングがつかめずにもじもじしたりしますが、足はくねくねなりません。もうオトナね。

ジェンネのことばにも、(ひとの顔が)赤くなる、という表現はありません。わたしがある失敗をして、耳まで真っ赤にしてじぶんの恥ずかしさを笑ってごまかしていたとき、近所のみなさんが、「わぁ!ミク、耳も顔も首も真っ赤になってる!」と驚いていました。ジェンネでも日焼けをして赤くなった白人の観光客のひとなどはよく見かけますが、恥ずかしさから瞬時にして赤く変身したわたしが、おもしろかったようです。その指摘にさらに赤くなって、「わぁ!手のひらも赤い!」と、子どもたちに手をひっくり返され、はやし立てられてしまったわたし。まだまだオトナになりきっていないわね。

ジェンネ語で「赤くなる」という表現はありませんが、「赤い人」という表現はあります。「黒人」と一言にいっても、その色の濃淡や色味はさまざま。「黄色」の人にも、松崎しげるみたいな人もいれば、透き通るような肌の人もいるし、赤ら顔の人も、土気色のひともいるのと同じです。「黒い」黒人のひと、「茶色い」黒人のひと、「赤い」(赤茶色)黒人のひとなどなど。マリのひとの身分証明書には、身長などのほかに肌の色や髪の色を記入する欄があります。見せてもらうと、たいていは「黒」と書かれていますが、すこし色が明るい人は「薄色」とか、赤茶っぽい人は「赤」と書いてあるものもありました。

「あの漁民のアマドゥさんがさぁ…」などと話していると、「どのアマドゥだっけ?港の前に住んでる一家の?…あぁ、あの色が黒い背の高い人ね」などという会話もよく聞かれます。みんな「黒い」けれど、みんな黒いわけではないのです。

いやぁ、いろんな顔色やいろんな肌の色のひとがいるものです。

数年前、マリのご出身でいまはドイツの大学につとめているジャワラさんという教授が、シンポジウムのため関西にやってきました。そのかたの京都案内をしていたときのこと。いわゆる、日焼けサロンで焼いているようなガン黒の女の子の集団が、わたしたちの前を通り過ぎました。『いまだにこんな子らがいたんや!』と驚くわたしの横で、それ以上に驚いているジャワラ教授。「へぇ!日本には、日本人と黒人のハーフの子がこんなにたくさんいるんだねぇ」。「先生、あれは、ああいうメイクとファッションなのです」と説明すると、すこし残念そうな顔をしていました。