2009年12月27日日曜日

まさかここで。

わたしは日本で、じつによく道を尋ねられる。べつに観光案内所に勤めているわけではありません。ふつうにてくてく歩いていたり、自転車に乗って信号待ちをしているだけなのですが、そういったときに、ほんとうによく道を尋ねられるのです。日本人からも外国人からも。おおげさでなく、一ヶ月に4,5回は道を聞かれるます。あと、ホームで電車を待っていると、「つぎの電車は〇〇駅には停まりますかね?」とか、スーパーで買い物していると、「トイレットペーパーとか売ってるコーナーはどこらへんかねぇ?」といったことを聞かれる場合も、ひじょうに多い。(こういう場合、相手はたいていおじいちゃんかおばあちゃん)。こうした変形バージョンも含めると、わたしの「尋ねられ頻度」は、かなりのものだと思います。

道を聞かれる回数について友だちと話す機会なんて、なかなかありません。なので以前は、まぁほかの人もこれくらい尋ねられていてるのかな、ちょっと多い気がするけどなぁ、くらいに思っていました。でもある日、たまたま友だちと歩いているときに道を尋ねられ、友だちが「…そういえばわたし今、人生で初めて道を尋ねられたわぁ!」とちょっぴり興奮気味に言っていました。30年近く生きてきて、これまで一度も道を尋ねられたことのない彼女もめずらしいとは思いますが、これで、「ほぅ、わたしは多いほうなのか」と思ったのです。

じぶんなりにその理由を分析してみると、一) あまり人と外出せずたいてい一人で歩いているので、声をかけやすい。二) 地元は福岡市、ここ7年は京都と、比較的人口が多く、よそからも人がやって来る町に住んでいるので、道に迷っている人に会う確立も高い。三) それほど奇抜な服装や髪型をしておらず、年齢的にも道を尋ねるのに若すぎず、まあまあ近寄りやすい。四) 道に迷っているらしき人がいると、つい『どうしたんやろ?』と観察してしまうので、目が合いやすい。

といったところだと思います。もしくは、顔相学的に「道に詳しいと思われやすい顔」とか?じぶんでも不思議なのが、住んでいない町(マリに行くための中継地なので、たまに短期で滞在するパリ)を歩いているときにも、これまで何度も道を聞かれたことがあるのです。もちろんパリ在住のアジア人はごまんといるので、わたしもその一人だと思って尋ねたのでしょう。そう考えると変なことではありませんが、よりによってわたしに道を尋ねなくても。パリっ子にパリの道を聞かれても、わたしゃ通りすがりの観光客さね。

前置きが長くなりましたが、そんな道を尋ねられやすいわたしが、先ごろ、とうとうレジェンドをうちたててしまいました。先月末にマリの首都バマコに数日間滞在していたとき、とうとう、マリ人に道を尋ねられたよ!これにはわたしもびっくり!

首都ではよく国際援助団体の関係者らしき欧米人をみかけるし、中国やベトナムからの移民も増えてきたとはいえ、まだまだマリでは、「黒くない人」=よその人、という認識です。わたしは日焼けしているけど、マリの人からすれば、どうみたって白めの中国人(アジア人)=よそ者。そのわたしに、なぜ道を尋ねる?そのとき、わたししかその場にいなかったとお思いでせう。いやいや、まわりには、道を知ってそうな地元っ子らしき人がたくさんいたのです。

昼下がり、バマコの道をてくてく歩いているわたしの横に、高そうな車がすぅっと停まりました。『おいおい、こんなところで突然止まって、危ない車だなぁ』と思っていると、その車の窓が、ウィーーーンと自動で下がりました(マリではまだまだ、自動で下がる窓の車はめずらしい)。そこから中年紳士が顔をのぞかせ、「マダム、ここらへんでいちばん近いBDM(マリの大手銀行のひとつ)をご存知ですかね?」と尋ねてきた。

まさかマリでも道を尋ねられるとは!その意外性に、年配とはいえ相手が男性だったので、『すわ、これは道を尋ねるふりをした新手のナンパやもしれぬ!』とも思いました。ナンパされ慣れていない哀しいわたしはちょっと警戒。でも、どうやらこの紳士はほんとうに、急いでその銀行に行かねばならない用事があるらしい。それならなおのこと、明らかによそ者の「白い人」に聞かず、地元っ子に聞けばいいのに。

たまたまさっき通った道に小さな支店があったので、「すぐそこの通りにありましたよ。でもこの道は一通だから、ぐるっと回らないといけないかも…」と教えることができました。短く礼を言い、さっそうと去っていく車。ナンバーをよく見ると、マリではなくお隣ギニアのナンバー・プレートでした。ギニアの形がプレートの隅っこに描かれていました。マリでギニアのおじさんに道を聞かれる日本人のわたし。なんだかワールドワイド。

これから年をとっても、わたしはこんなかんじで、世界のあちこちで道を聞かれ続けるのでしょうか。聞かれても答えられないときには、こっちが悪いわけではないのにやっぱり少し申しわけない気持ちになるし、急いでいるときや体調のすぐれないときに尋ねられる、無碍にもできずかといって丁寧に教えることもできず困るし…それなりに、道を尋ねられやすい人生もいろいろあるのです。でも、わたしもよく人に道を尋ねるし、ひとに道を尋ねられるのはきらいじゃないので、よしとします。

こんど道を尋ねられたら、「なんでわたしに尋ねたんですか?」って、逆に聞いてみたい。たいした理由はないんでしょうけどね。――それにしても、マリでもねぇ…。道に迷っているひとをひきつけるフェロモンでもでてるのかしら。どちらかといえば、お年頃の男性諸氏をひきつけるフェロモンのほうをだしたいのですが。

2009年12月19日土曜日

そろそろ二人目を…

イスラームでは、男性は4人まで奥さんをもてます。国によっては、たとえムスリムがマジョリティでも、法律で一夫多妻を禁じているところもあります(たとえばトルコやチュニジアとか)。なので「イスラームでは」というと語弊がありますが、すくなくともマリ共和国の法律では、4人まで奥さんをもつことは問題ありません。ジェンネでも、複数の奥さんがいる男性はめずらしくありません。かならずしもすべての男性が複数の奥さんをもっているわけではありませんが、わたしが知るかぎり、40歳以上の既婚男性の半分以上には、複数の奥さんがいます。さすがに4人の奥さん(とそれぞれが5人は産む子どもたち)を養えるひとは少数。よくみられるのは、20代で一人目と結婚して、30代後半か40代で二人目(だいたい自分よりひとまわりかそれ以上年下)をめとる、という、奥さん2人のパターンです。

さて突然ですが、ここ数ヶ月、ママドゥさんがそわそわしているの。ママドゥさんは、2007年のわたしのジェンネ滞在以来、調査助手をつとめてくれているお兄さんです。調査助手というと大げさかもしれませんが、長いインタビューをするときにジェンネ語からフランス語に通訳してくれたり、調べたい事柄があるけど誰に話を聞けばよいかまったく見当がつかないときに、「どこどこさんちのあのおじいさんに聞くといい」とアドバイス&わたしを紹介してくれたり。もちろんボランティアではなく、一緒に仕事をするときには、お金を払って働いてもらっています。34歳、本業は泥大工です。

ママドゥさんは、ジェンネの平均からしたらすこし遅い、29歳で結婚しました。ただいま結婚5年目。奥さんのニャムイさんは、飾りっ気のない、とてもさっぱりして明るくやさしい女性です。親同士が決めた結婚だそうですが、マジメすぎるところがあるママドゥさんとさっぱり明るい奥さんは、とてもバランスがとれているように思います。子どもも2歳半の女の子と1歳の男の子にめぐまれ、いやぁ、うらやましい若夫婦じゃないか!

なのになぜ、ママドゥさんはここ最近そわそわしているのか?そう、それは、「そろそろ二人目を…」と思いはじめてしまったからです。子どもの話ではありません。「そろそろ二人目の奥さんをもらいたい」とそわそわしているのです。おしゃべりしていると、なにかと「いやぁ、やっぱり嫁さん二人いたらいいよなぁ…」という話になる。わたしが未婚の美人な娘さんと仲良くしていると、「あ、そういえば、ミクの友だちのあの子さ、婚約者とかいるのかねぇ?」などと、さりげないふりをして―でも傍目には、その娘が気に入っているなっていることがバレバレな感じで―聞いてくる。

う~ん、どういうタイミングで、マリの既婚男性が「そろそろ二人目を」と思うのか?一夫一婦制の日本に育ったひと、しかも女性のわたしには、よくわかりません。日本の男性諸氏、ママドゥさんのそわそわが分かりますかね?ママドゥさんは結婚5年目、働き盛り・男盛りの30代半ば。しかも、一緒の家に住む8歳年の離れたお兄さんが、去年二人目のかわいい奥さんをもらったばかりです。そういう状況を考えると、まぁ、一夫多妻の環境のなかで育ったかれが、そわそわしはじめるのも無理はないのかなぁ…?

ある日、奥さんとママドゥさんとわたしでお茶を飲みながら話しているときにも、ママドゥさんが「いやぁ、そろそろ二人目…」と言い出しました。『また始まった…』と思ったわたしは、「ニャムイ(奥さん)ひとりで十分やん!彼女はかわいいし、よく働くし、よいお母さんだし、あなたより10歳も若いんだよ?」と言うと、ふだん静かに話すママドゥさんが、負けじとまくしたててきます。「いやいや、ニャムイが良いとか悪いっていう問題じゃないんだよ。一人目の奥さんがよくないから二人目をもらう、というわけじゃないんだ。男たるもの、やっぱり、複数奥さんがいないとね!それにニャムイ自身も、ぼくがもう一人奥さんをもらったら助かるはずだよ?家事仕事も減るし。な?ニャムイ、おまえも賛成だよな?」。当の奥さんとわたしにそう言いおえると、ママドゥさんは「ちょっとトイレ」と席を立ちました。

席を立つママドゥさんの後姿に、奥さんのニャムイさんは『やれやれ…』という苦笑い。そしてわたしに、いつものカラッとした笑顔で、「二人目をもらいたいなら、さっさともらえばいいのよ。はいはい、わたしも賛成。賛成ですよ?でもあと10年は無理ね~。あのひと、お金ないもん。誰が砂糖を買うお金もないひとのところに嫁に来るっていうのよ?ふふふっ!」。たしかに、ママドゥさんはとても有能で働き者ですが、泥大工の仕事も調査助手の仕事も、そう安定してはいない。そのうえ人がいいのか、義理を通して金銭的に割の合わない仕事を引き受けてきたりする。このときにも「3人でお茶を入れて飲もう」とママドゥさんが提案しておきながら、かれにはお茶にいれる砂糖を買うお金がなく、結局わたしが買ってきたのでした。たしかに経済的には、かれの「そろそろ二人目を…」の願いがかなうのは、今のところなかなか難しいように思います。

わたしは、ジェンネのみなさんの、神さまへの愛情にあふれた穏やかな信仰心はとても好きです。でも、4人まで奥さんをもてるというのには、どうしても違和感がある。こんなことを言うと毎回、「じゃぁ日本やヨーロッパの男性は、よそに女のひとがいないのか?僕らはそういうことをせず、ちゃんと二人目もめとって家族として一緒に生活してるんだよ?」と、意気揚々と論駁されるのです。国内の新聞も届かないこの町で、どうやってそんな日本情報を仕入れたんだか。うーん、おっしゃるとおり、日本でもヨーロッパでも、よそに女のひとがいる男性はたくさんおるわけでして…。

それにしても、「二人目がほしいよぅ!」と滑稽なほどあからさまにそわそわするママドゥさんと、それにたいして、駄々をこねる子どもを見るような目で、「はいはい、わたしも賛成よ~」と笑顔で言ってのける10歳年下のニャムイさん。――やっぱりすっごくお似合いだと思うし、ニャムイ一人で十分だと思うけどねぇ。

2009年12月11日金曜日

届かないのよね。

マリの家庭では一般的に、手でごはんを食べます。スプーンやお箸は使いません。皆でごはんが入った器を車座にぐるりと囲み、右の手でソースがかかったお米や粟を握って食べます。お寿司のシャリを片手で握る要領です。器は地べたに置かれているので、ござの上や高さ10cmくらいの腰かけに座ります。器は大きいものでもせいぜい直径40cmくらい。その周りの手が届く範囲にぐるっと座るわけですから、大人数で大きな輪は作れません。詰めて座っても7人くらいが限界です。ちいさな子どもが含まれていれば、もう少し多い人数でも囲めます。逆に、恰幅のいい人(おもにおばちゃんたち)が含まれていれば、5人でいっぱいになるときも。

互いにぎゅっ!と近づいてごはんを食べるのは、窮屈といえば窮屈です。日本でも、混みあった居酒屋でぎゅうぎゅうに詰めて座らざるをえない宴会の席などがありますが、互いの距離は、それよりもっと近い。ちょっと首を横に向けたら、となりの人の耳が目の前です。『そんなに窮屈なら、一人一人お皿に分けて食べたらいいじゃん』とお思いかもしれません。でもね、なんだか幸せなの、このぎゅうぎゅうぎゅうが。みんなでひとつの器を円く囲む、文字どおりの「団欒」です。特にわたしは兄弟が多く比較的大人数のなかで育ったからか、こっちのほうがしっくりくるのです。

ジェンネでは、大家さんご一家と一緒に、円になって手でごはんを食べています。よく、「イスラームだから男女別々にごはんを食べるんでしょ?」と聞かれることがありますが、まぁそれは、ご家庭によります。大家さんちでは、男女関係なく家族みんなで器を囲みます。わたしの知る限り、マリでは男女別に食べている家は少ないように思います。男女でなんとなく分かれて食べているご家庭も、「イスラームだから」というよりも、大家族なので全員でひとつの器を囲めないから、2,3個の器に分かれて食事をしている、という感じです。人数が多いと、自然とそれぞれの器に大人が配置されて、お父さんと小さい子どもたちの器/お母さんと年長の子どもたちの器、といった感じの分かれ方をしたりする。

話はちょっとそれますが、日本でマリでの食事の話になると、必ずと言っていいほど、「イスラームだからやっぱり男女別々に食べるんでしょ?」と聞かれます。この質問には、ちょっと違和感があります。別にコーランに「男女別にごはんを食べないとだめですよ」って書いてあるわけでもなし。世界のあちこちに何億人もムスリムの人がいるんだから、ごはんの食べ方は、それぞれの地域やご家庭、時と場合によっても違うでしょうよ、それは。

さて、ある日のお昼ごはん。大家さんちでいつものように円になってごはんを食べていると、すぐとなりに座っていた大家さんの娘さんが、わたしにこう言ってきます。「ミク、もうちょっと器から離れてくれるかしら。わたしの腕がミクの頭に当たりそうで食べにくいのよね…」。そう言われてほかの皆をみると、たしかに、わたしだけ器に近い。絵に描くとこんな感じです↓皆が座っている円周上から、一人だけ内側に入っていました。なるほどひとりだけ器に近づいていると、左隣のひとが腕を伸ばすときに、わたしの頭が邪魔になるわけです。


「あ、ごめんごめん、気づかなくって」と詫びて、皆が描く円のラインまで、15cmほど後ろに下がりました。すると――あぁ困った。手が器まで届かないよぅ。ごはんが食べれないよぅ。なぜ自分だけ、いつのまにか他のみなさんより器側に寄っていたのか、ようやく分かりました。腕のリーチが短いからだった…。器までぴんと腕を伸ばしてごはんをすくおうと頑張るわたしを見て、今度は娘さんが、「あ、ごめんごめん、気づかなくって。腕が届かないから寄ってたのね。内側に戻って大丈夫よ」と詫びてくれました。「うん、届かなかったよね…」と、つつつ、と再び器に寄るわたし。

嗚呼、なにがショックって、そう気づいて改めて見てみると、わたしより身長の小さな(140cmくらい)子も、皆と同じ距離に座って腕が器まで届いとるやんか! そんなにわたしの腕って短かかったっけ? 日本人としては長くも短くもない、ごくごく平均的な腕の長さだと思うのですが。ということは、こちらの人の腕が長いのでしょう。たしかに、高い棚の上に載っているものを取ろうとしてわたしがピョンピョン跳ねていたら、わたしより小柄な子が、跳ねることなくひょいと腕を伸ばして、たやすく取ってくれたことがあったな…。

というわけで、幸せな一家団欒ですが、わたし一人だけちょっと円から外れています。それでもまぁ、皆でぎゅうぎゅう詰まって食べていることに変わりはなく、食事はおいしゅうございます。わたしの頭が右のひとを邪魔しないように、ちょっと後ろにのけぞり気味で食べなきゃだな。



15年くらい前までは、皆で囲むごはんに、このような木の器が用いられていたそう。継ぎ目がなく、太い木をくりぬいて作っている固い木器です。これは直径40cmくらいですが、両手でよいしょと持ち上げないといけないくらい重い。この黒い色は、バオバブの木の葉を粉にして、カリテ油と混ぜて塗りこんだもの。とても端正なフォルム・質感の器ですが、今ではプラスチックやステンレス製の器にとって代わられ、ほとんど見かけません。おじさん世代の大家さんはこれが妙に懐かしいらしく、お祭りのときなどに、物置の奥から引っ張りだしてきて使っています。これを川辺まで持っていって洗わなければいけない娘さんたちには、「パパ、これ、重いから洗いにくいのよね」などとあっさり文句を言われていましたが。

2009年12月7日月曜日

マリのジャカルタ、デザインは日本。Jakarta in Mali, designed in Japan?

所用のため、ジェンネから首都バマコに来ています。

いやぁ、バマコ、バイクが多い。これはバマコにかぎらずマリ全体で言えることですが、バイクがとても多い。ここ数年で一気に増えました。しかも、ほとんどのバイクが同じものです。その名も「ジャカルタ」。

ジャカルタは、マリで大量に販売されている中国製のバイク。車体には「Super K」と書いてあるので、おそらくそれが本当の商品名です。でもマリではなぜか「ジャカルタ」と呼ばれています。いわゆるスクーター・タイプの50CCバイクです。バマコの街はジャカルタだらけ。車体の色こそちょっとずつ違えど、バマコで見かける二輪の9割以上がジャカルタといっても過言ではありません。



首都バマコのある道路。ちなみにこの写真に写りこんでいるバイクのすべてがジャカルタです。

マリでは昨年までバイク所持のための登録・免許が不要だったので、マリ国内のバイク台数の正確な数字はわかりません。(今年にはいって免許・ナンバープレート・ヘルメット着用が義務づけられたけど、守っている人はごくごく少数です。)マリの新聞Le Républicain紙の推定によると、マリ国内にある50万台のバイクのうち、30万台がこのジャカルタであろう、とのこと。ここで言われている「バイク」にはもっと大型のものも含まれていると思うので、50CCのスクーターでは、おそらくほぼ100%がジャカルタだと思います。「そんな大げさな」とお思いのあなた、マリに来たら納得よ。ジャカルタ以外のバイクを見つけることは至難のわざというくらい、ジャカルタ一色なのです。

このジャカルタ、わたしが2004年に初めてマリに来たときには一台も見かけませんでした。そもそもこんなにバイクが多くなかった。そして2007年にやってきてびっくり。バイクの台数が目に見えて増えていたうえに、よく見りゃみんなのバイク、おそろいじゃん ! バマコの人びとに聞くと、ジャカルタがマリにはいってきたのは2005年ごろ。25万CFA(5万円くらい)から買える手軽さから、たった数年で爆発的に増えたそうです。ちなみにマリ政府の発表によると、2007年のバイクの輸入額は前年比33%増とのこと。もりもり伸びてます。

それにしても、なんで「ジャカルタ」なのかしら。おそらく、中国の会社がバイクを売り込むときに、英語のありふれた商品名よりもキャッチーな呼び方を、ということで、このタイプのバイクが多そうな都市ジャカルタの名をつけた、と考えられます。以前、マリのテレビでアジアの都市についての番組があっていて、近所の皆さんとぼぅっと見ていました。「インドネシアの首都、ジャカルタ・・・」というナレーションが流れたとき、皆さんが「 ジャカルタ だって !バイクみたいな名前の街だね~」とケラケラ笑っていました。「いやいや皆さん、あっちが本家本元です」と説明するも、マリでは都市名ジャカルタの認知度よりもバイクのジャカルタの認知度の方が圧倒的に高く、みなさん納得してくれませんでした。

ジャカルタはどこの会社がつくっているんだろう、と、友人のジャカルタをまじまじ見ますと、エンジンのうえのほうに「Designed in Japan」の文字が。ほかに国名は記されていません。唯一車体に書いてある国名がJapanなので、ジャカルタを日本製品だと思っている皆さんも多いようです。うーん、それなら素直に「Made in Japan」と書くはず。「日本でデザイン」て…。

ジャカルタはお手ごろ価格ですが、びっくりするほどの頻度で故障します。街角のバイク修理屋さんは大繁盛。また、手軽にバイクが手に入るようになったうえに免許いらず(本当は要るけど)ので、事故も頻発。バマコの車道でジャカルタがひっくり返っているさまを見かけない日はありません。皆さんノーヘルでかなりアグレッシヴな運転をしています。バマコの街をいくときには、巻き込まれやしないかと、ビクビクドキドキ。都会は苦手です。

2009年12月1日火曜日

僕らが闇に隠れて越す理由。

日本でお引越しといえば、よほど何か特別な事情がないかぎり、午前中か、おそくともお昼くらいから始めるものだと思います。ほらやっぱり、夜に荷物を出し入れしていると、「夜逃げ」感が漂うしね。

でもジェンネでは、どうやら違うらしい。

前回の滞在時(2007年)に一度、ジェンネ内で引越しをしました。最初にお世話になっていた町はずれのお宅からいまの大家さんちへ、2km弱のお引越し。引越しというのも大げさな、トランクとバックパック各1個とじゅうたん、ござ、イスくらいの荷物でした。朝からルンルンとその荷物を移動させようとするわたしを、まわりにいた皆さんが止めてきました。「暗くなるまで待て」。「えー、なんでよ?暗いなかで荷物を運ぶのは大変だから、さっさと済ませてしまいましょう」と言うわたしに、さらに、「まぁとにかく、あんまりよくないから、暗くなるまで待て」

よそ者や外国人が、勝手の分からない土地(特に田舎)にやって来て、ある行為を「よくないからやめろ」と止められてしまうと、どうしようもない。こういう状況は、ジェンネに限ったことではなく、日本でもあることだと思います。どうしてダメなのかよく理由は分からなくても、押し切って実行して、悪い噂とか困った事態を引き起こすのはちょっとこわい。なのでおとなしく皆さんの言うことを聞いて、日が暮れてからお引越ししました。暗いなかでがさごそと荷物を運ぶのは、わたしの知っているお引越しのイメージとはちょっと離れていて、妙な感じでした。

さて話はいまに戻って、先日。わたしの部屋にある扇風機を、友だちの家族にあげることにしました。今の季節ジェンネは比較的涼しいので、ここ1ヶ月は扇風機を使っていません。つぎにこれを使うのはきっと、猛暑の日々がふたたびおとずれる3月くらいから。でもそのときには、わたしはもう日本に帰っている予定です。

というわけで、今のうちに人にあげることに。朝、その友だちに「扇風機いる?」と言うと、「くれるの!? あとで息子に取りにいかせるね!」と、たいへん喜んでくれました。扇風機は安いものでも1万CFA(2000円くらい)するので、超高級品とまではいかなくても、誰でも買えるものではないのです。

しかし夜8時になっても、まだその息子は扇風機を取りに来ず。忘れてるんだろうな、急ぎでもないしいいか…と眠りつこうとした夜10時に、やっと来た。寝巻き姿で「遅かったね」と扇風機を渡すと、「暗くなってからでないと、よくないですから」とのお返事。彼は懐中電灯を口にくわえ、両手でよろよろと、じぶんの背丈と同じくらいの扇風機を運んでいきました。

これもやっぱり、夜なのね。引越しだけだと思っていたけど、どうやらこういう場合の荷物を運ぶのも、暗くなってからのほうがいいらしい。それにしても、よほど暑い季節でない限り、昼間に引越し荷物を運んだほうが、なにかと作業しやすいように思うけど。というわけで、いろんな人に、なんで夜に引越しをするのかを聞いてみました。

皆さんの答えを要約すると、いわく、「明るいうちに荷物を運ぶと、あなたの家に一体なにがあるのかが、誰の目にもわかってしまうでしょ? それを隠すために、暗くなってから荷物を運ぶ」。ほぅ。でもなんで、荷物の内容がばれるとよくないの?「ここにはたくさんの嫉妬がある。荷物を見て、『あの人んちにはあれがあるんだ』『へぇ、あれも持ってるんだ…』と思うひともたくさんいる。ひとの嫉妬心をひきおこすのも、嫉妬の対象になるのも、よくない」――ほぅ、なるほど。

ジェンネのひとは、数百年の歴史をもつ古都の住民だけあって、じぶんや他人の「見栄え」を気にする人たちだなぁ、と、つねづね思っています。と同時に、こういう他人からの嫉妬も、皆さんとても気にしているように見受けられます。闇にまぎれての引越しも、そういうことなのね。

たしかに、皆が顔見知りで、互いの経済的状況や家族喧嘩も筒抜けなこの狭い町で、扇風機を持って昼間にうろうろしていたら、「それどうしたの? 買ったの?」と聞かれること必死。そのときに、「ミクからもらった」と答えようものなら、『ミクはなぜ私たちのところにくれなくて、この人のところにあげたのかしら』と思われることもありうる。「買った」と嘘をつこうものなら、『あの家は扇風機を買えるほどお金はないはずなのに…あやしい』と思われるかもしれない。

ひとつの家をぽんっと引っこ抜いたら全部の家が倒れてしまいそうなくらい、家々が背中合わせ・お腹あわせで密集しているこの町。家々のあいだを縫うようにはしる路地には、皆が顔見知りの安心感と、皆がどこか監視(というとおおげさですが)しあっている緊張感が一体になって漂っているんだなぁ、と思うのでした。

嫉妬はしないにこしたことはないし、たがいに見張っているような緊張感はないほうがいいですが、まぁ、いろんなタイプの人たちがくっついて暮らしていると、そういう気持ちが生じるのは、人の性(さが)かもしれません。(ちなみにジェンネでは、嫉妬からくる"病気"や他人からの嫉妬をそらすためのおまじない・神頼みも発達?しています。)

『これは人の性だからしかたないさ、できるだけこれを防ぐふるまい方を編み出そう』こういう"性悪説"な姿勢は、「嫉妬はよくないわ! 」「ひとを妬むなんて人間がなってない証拠なり」と固く厳格になるよりも、プラティカルな気がします。それに、人間がぎゅうぎゅうくっついて暮らしているのに、隣に誰が住んでいるのかすら知らなくて、階段ですれ違って挨拶したら無視されちゃうような日本の単身者のアパートよりも、しごく健全だと思うわけです。

うーんでもやっぱり、人の目を気にして夜に荷物を運ばなきゃならんのは大変かな。世界中のどこに住んでも「住めば都」とまでは言いませんが、どこにも心地よさと同時に窮屈さがあるもんですたい。

2009年11月25日水曜日

マリのミスコン。

先日、マリではミス・マリ・コンテストが開催されました。正式名称はMiss ORTMといいます。ORTMはマリで唯一のテレビ放送局(国営)です。ほかに全国規模のミスコンがないので、このテレビ局の主催で年に一度開かれる当ミスコンが、実質的なミス・マリ・コンテストです。

マリの8つの州から、各州の代表者が選ばれます。これに加えて、さらにフランス在住のマリ人代表も。フランスに住むマリ人は、パリ周辺を中心に数十万いるといわれます。これだけいれば、ミス・マリの選考にも、フランス在住のマリ人を軽視できません。

ミス応募の年齢制限は24歳とのこと。テレビで各州の代表者をみると、それぞれの州に多いエスニックに特徴的な顔のひとが見られます。北のキダル州代表は、肌の色が浅く、高い鼻にどこか憂いのある目。南のシカソ州代表は、肌の色が黒く、口角がきゅっと上がったハツラツとした口元で、おめめパッチリ。タイプはまったく異なりますが、それぞれに美人さんでございます。



美人ぞろいでけっこうなことですが、ただ、ちょっと気になる点がひとつ――皆さん細い。とにかく細い。

マリの女性のなかには、年齢を重ねると「ふくよか」か「とってもふくよか」な感じになる方が多めですが、娘さんはだいたい細めです。細いといっても、出るところは「パンっ!」とかっこよく出ている。かといって、太っているわけではない。

普段から、娘さんたちのプロポーションを、あっぱれなり! と思って見ていた扁平なわたしだけあって、選らばれたミスの皆さんを見て、ちょっとアレ?と思いました。というのも、ミス・マリなのに、マリの同年代の女性の平均からしても、細すぎる。いや、細いっていうか、あの素敵な「パンっ!」が足りなくないか?

30代半ばから上の世代くらいの人は、「女は丸くてなんぼ」といった認識の人が多い印象です。わたしもよくジェンネで、おじさんおばさん方に、「もっと太らないと子どもが産めないわよ」「そんなにぺちゃんこだと男が寄ってこんぞ」と、本気で心配されます。服を仕立てるとき、採寸しようとした仕立て屋さんから、「バストとヒップはどこですか?」と真顔で聞かれたことも。仕立て屋のおじさんよ、分かりにくいかもしれませんがね、こころなしか膨らんでいる上のほうがバストで、下のほうがヒップですよ。

そんな太め志向の壮年・中年の一方で、10代後半から20代はやせ志向。とくに都市の若者にその傾向は顕著です。若人いわく、「太い女は好みじゃない」「太りすぎは病気になりやすい」「わたしはコカコーラの瓶みたいな体型でいたい」などなど。コカコーラの瓶になりたい子のお母さんは、コカコーラの缶のほうみたいな形をしてはります。

ミス・マリの候補者の細さは、こうした若い世代のやせ志向を反映しているのかもしれません。でもなぁ、太りすぎはいかんが、あの「パンっ!」感に欠けるのもどうかと。あれこそマリの美人ってイメージなんだけどなぁ、と、勝手にちょっと不満。ま、わたしは審査員でもなんでもない、通りすがりの外国人ですが。

そんなわたしの不満や年配のマリ人の皆さんの声を反映してか、マリにはもうひとつのミスコンが存在します。「ミス・ヤヨロバ」。ミスORTMと時期は異なりますが、こちらも年に一度、盛大に開催されます。

「ヤヨロバ」とは、バンバラ語で太った女性のこと。でも単に太っているのではなく、「パワフルで愛想のよいふくよかな女性」という肯定的なニュアンスのことばです。「彼女はヤヨロバだ」というのは、ほめ言葉。エントリーする女性たちの体重は、細めなお方で80kgくらい、大きなお方で130kgとか。

以前テレビでミス・ヤヨロバ候補者の皆さんを見ましたが、たしかに、ただ太いだけではありません。どこか愛嬌がある。自分がこんなサイズに成長を遂げようとは露も思いませんが、こんなお姉さんが近所にいたら、老若男女から慕われそうだなぁ、というタイプの、ど~んと陽気な雰囲気の方々です。ミス・ヤヨロバでは、優勝のあかつきには、賞金のほかに1年分の米も進呈されます。おちゃめなマリの皆さんよ。

美の基準は地域や個人でそれぞれでしょうが、どっちもなんだか極端な、マリのミスコン事情であることよ。

2009年11月21日土曜日

わたしたちの妻。

先日、ひょんなことから、ジェンネであるイギリス人の夫婦と知り合いました。3ヶ月かけて、中古のキャンピングカーで西アフリカを回っているという若夫婦。「キャンピングカーでアフリカを回る欧米人夫婦」というと、過剰にロマンチストでやけにタフなイメージ(偏見?)がありましたが、この二人は、淡々として物静か。キャンピングカーよりも図書館が似合うような雰囲気でした。こちらの家庭料理を食べてみたい、という二人の希望があり、うちの長屋に招待しました。

こちらのスタイルで、洗面器のような器をみなで囲み、ごはんを食べました。二人は熱いごはんを手で食べることに苦戦しながらも、食事を楽しめたようで満足の様子。おうちにやってきた青い目のふたりに、ちょっと興奮気味の長屋のみなさん。わたしのたどたどしい英語通訳を介して、二人にいろいろ質問してきます。

ちびっ子たちは、もじもじしながら、「目が青いと、ぼくのことも青く見えるの?」とか、「イギリスとミクの国(日本)は近いの?」といった子どもらしい質問。サッカー好きの青年は、「マンチェスター・ユナイテッドの試合を観に行ったことはありますか?」「マリ出身のサッカー選手は、イギリスでもプレーしていますか?」などなど。

そんななか、大家さんの奥さんが、「イェル・ワンデ、ノー・ゴイ・マ?」と質問しました。訳すと、「Our wife, what's your occupation?(わたしたちの奥さんよ、あなたはなんのお仕事しているの?)」です。そのとおりに英訳して、二人に伝えました。すると、ちょっときょとんとする二人。奥さんが「Our wifeって、わたしのことですよね?」と確認してきます。

マリではよく、"わたしたち"という所有格が使われます。バンバラ語で「アンカ(アウカ)」、ジェンネ語で「イェル」。たとえそれが実際に「わたしたち」のものでなくても、親しみと軽い敬意を込めて、「わたしたちの」と表現するのです。

たとえばある男性が、友だちの奥さんのことを「イェル・ワンデ(僕たちの奥さん)」と呼んだり。これはもちろん、この2人の男性が一人の奥さんを共有しているわけではなく、友人とその奥さんへの親しみからくる表現です。ほかにも、「イェル・ハルベル(わたしたちのおじいさん)、こんにちは」とか。この場合も、必ずしもその「おじいさん」は、彼/彼女の本当のおじいさんとは限りません。

きょとんとする二人に、そういったことを説明しました。久しぶりにまともに話す英語なので、フランス語からうまく切り替わらず、なんだかちゃんぽんになってしまいます。恥ずかしい。二人はわたしのそんな変な英語もどうにか理解してくれたようで、旦那さんが、「"私たちの"妻の仕事は、画材屋の店員です」と答えました。

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ここにいると、いろんなものが「わたしたち」のもの。それは時にうっとおしいし、時に心地よい。

たとえば、「イェル・モト(僕たちのバイク)のガソリンが切れたから、ガソリン代めぐんでくれるかな?」と、突然道ばたで小銭をせがんでくる男性。小さい町なのでその人の顔は見たことがあるけど、名前も知らない。ここでは、外国人=百万長者という認識なので、こういう無心は毎日のようにあります。「貧乏だから、ガソリン買うお金がないんだよねぇ」と言い訳してくるその男性に、「そのバイクは別に"わたしたちの”じゃない。"あなたの"だ。だいたい、本当に貧乏なひとはバイクなんて買えないんじゃないですかね?」と追い返すときの、腹立たしさ。こういうときの「イェル」には、嫌悪すら感じます。

一方で、「わたしたちの」には、こそばゆい安心感もあります。わたしが大好きだったクンバはよく、他所の村から親戚や友人がやってくると、「ミク、ちょっと来な」とわたしを呼んで、皆さんに紹介してくれました。「このイェル・チュバブ(わたしたちの外国人)はミクっていってね、ザポン(日本)という国から来て、隣の部屋に住んでるのよ」。そのときの、どこかちょっぴり自慢げな彼女の表情と、「イェル」という響きは、とても大好きでした。

そんな感じで亡くなった彼女を思って切なくなりながらも、「アムールと個人主義のフランスで、ある男性がその友だちに『わたしたちの奥さん』とか言おうもんなら、『おい、お前、俺の嫁さんと何かあっただろ?!』とかいって喧嘩に発展するのかなぁ」などと、下世話なことを考えたのでした。それはそれで見ものです。

2009年11月17日火曜日

フフ・デルヴェの季節。

むかし社会科の授業で、「砂漠気候は、昼夜の寒暖の差(日較差)が大きいことが特徴」と習った記憶があります。「砂漠は暑い」というイメージしかなかった、中学生のわたし。「夜の砂漠は10度以下になることもある」という先生のことばに、ほぅ、そりゃぁすごかですね、と驚いたものでした。10年後、それを身をもってそれを実感しようとは。人生は分からないものですな。

マリは、国土のおよそ半分がサハラ砂漠に覆われている砂漠の国です。「砂漠の民」とも呼ばれるトゥアレグの人たちを除いて、人口の大半が、砂漠でない国の南半分に暮らしています。今わたしが住んでいるジェンネは、サハラ砂漠からは直線距離で300kmくらい離れているので、砂漠気候ではありません。そのすぐ南縁の、乾燥サバンナ気候です。

でもやはり、この季節(11月~2月)は、昼夜の寒暖の差がおおきい。さすが砂漠に近いだけあるわ。最近、少しずつ、朝晩は冷えるようになってきました。お昼には30度を超える気温でも、夜は毛布なしには眠れないほどです。暑い季節には、屋上か中庭で眠るわたしですが、さすがに今の時期は、部屋のなかで眠ります。そうでないと風邪をひく。

牛の群れをつれて放牧生活をする牧畜民フルベの男性などは、部屋のなかでは眠れません。日々移動なので、せいぜいテントか、外での野宿。家々の密集した村や町のなかならともかく、荒野のなかでぽつんと野宿は、かなり寒いことと思います。だからこそ彼らは、羊毛で布を織る技術を発達させたのだと思います。

マリの布はコットンが主流ですが、フルベの伝統的な布といえば、羊毛布です。牧畜民だから羊を飼っていて羊毛が手に入りやすい、というのが第一の理由でしょうが、「寒い」というのも大きな理由かと。羊さんの毛はあったかいものね。この伝統的な羊毛布、モチーフが細やかで、色調が抑えられて、とてもきれいだと思います。



防寒着が必要なのは、牧畜民にかぎりません。マリの人はそうじて、暑さには強いが、寒さにはてんで弱い。日本の冬の寒さに慣れているわたしには「ちょっと肌寒いな」くらいの冷えでも、こちらの人は「おぉ寒い寒い」とガタガタ震えています。

あるお話をひとつ。マリは元社会主義国なので、いまでも外国留学先として、旧東側のロシアやウクライナ、中国などが一般的です。旧ソ連時代、モスクワの大学へ留学したあるマリ人男性。なにを思ったか、一週間後にマリに戻ってきてしまいました。理由は、「モスクワは寒かった…死ぬかと思った」だって。ほんとの話です。

資金面・能力面ともに、誰もが行けるわけではない数年間の外国留学。それを「寒かった」からと、一週間で棒に振るなんて! わたしは、この話を聞いて「冗談やろ?」と笑いましたが、一緒に話を聞いていたマリの人たちは、「あぁ、そりゃかわいそうだ…」「寒かったろうねぇ…」と、その男性に真剣に同情。――まぁそれくらい、皆さん寒さに弱いということです。



ニット帽子をかぶり、コートをちょいとひっかけさすらうジェンネっ子。



ちいさな子どもは、この季節、たいてい防寒用にフードか帽子をかぶせられています。食べちゃいたいくらいかわいいねー。



ジェンネの月曜定期市。この日の昼の気温は30度。そんなピーカン太陽のもと、売られているのは裏地が起毛のウィンドブレーカーと毛布。昼間はどんなに暑くとも、夜にはこれが必要になるのです。

ジェンネ語で、寒さのことを「フフ」、バンバラ語では「ネネ」ですといいます。どうしてどちらもくり返すのかしら。ジェンネ語で服のことを「デルヴェ」というので、この時期のもこもこ防寒着は、「フフ・デルヴェ」と呼ばれます。

日本もすっかりフフ・デルヴェの季節なんだろうなぁ。日本の冬の朝の、「あぁ布団から出られない! でも起きないと遅刻してしまうぅ…」という、あの幸福な葛藤が、ちょっとなつかしいです。

2009年11月13日金曜日

ペイ・ドゴンの小旅行。

ちょっと自転車にひかれましたが(いきった中学生の女の子にわざと正面から衝突されたよ!)、ひじと足に擦り傷ができただけで、ひとまず元気です。

逃げたその子の名前をつきとめて、仲介人となる年配の人に付いてきてもらって、その子の親御さんに文句を言いに行きました。そこで話し合いがあってひとまず解決したけど、まだ気持ちはもやもや。その子の「珍しいもの=わたし」にたいする偏狭な態度とか、そういうことでまわりに自分を誇示しようとする根性とかを思い出したら、いやぁな気持がして夜も眠れない。子どもに甘すぎる親と小粒のヤンキーって、日本でもマリでもホントに嫌いよ、わたし。

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さて、以前にも書いたように、今月はじめ、マリ国内旅行に行ってきました。今回はその旅にまつわることについて書こうと思います。

旅先は、マリ中東部のペイ・ドゴン(フランス語で「ドゴンの郷」)と呼ばれる地域です。ここは、人類学をやっている皆さんには、豊かな神話の世界やジャン・ルーシュが民族誌映画を撮った地として知られていると思います。1989年には、ユネスコの世界遺産(文化・自然複合遺産)にも指定されました。ドゴンの神話や民族誌に興味がある方は、マルセル・グリオール『青い狐―ドゴンの宇宙哲学』(坂井信三訳、せりか書房、1986年)を読んでみてください。とても興味深いおはなしばかりですが、長くなるのでここには書きません。

ペイ・ドゴンは、標高200~500mくらいのほぼ垂直の崖が、200kmにわたって、南北に走っている場所です。太古(カンブリアン期、約5億4500万年前~約5億0500万年前くらい)に地面が裂けた跡である崖。とても静かにすくっとそこにある崖の姿は、たいへん荘厳です。

ドゴンという民族の人口は、マリと隣国ブルキナ・ファソに約70万人(ガイドさん談)。たくさんの民族が共生するマリのなかでも、少数民族です。ドゴンの皆さんは、この崖ぞいに村を形成し、畑を耕して生活しています。観光地として有名なので、フランス語を話せる若い男性は、外国人向けの観光ガイドの仕事にも就いています。

マリのひとはよく、じぶんや友だちの民族のステレオタイプを、冗談でからかいあいます。たとえば、漁民であるボゾのイメージは、「いつも魚を食べている、ほんのり魚くさい、泳ぎが魚のように上手」とか、商人であるサラコレは「お金にうるさい、いつもお金を数えている、頭がきれる」、牧畜民であるフルベは「自分より牛が大事、ほんのり牛乳くさい、初対面の人にも社交的」といった感じ。(当たっている部分も多いから面白い。)

そうしたステレオタイプを前提にして、肉を食べている漁民ボゾの友だちに、「おい、肉なんか食べてお腹こわさないか?」と言ってみたり、ちょっと暗算を間違った商人サラコレの友だちに「お金にうるさいサラコレなのに、そんなありえへんミスを!?」とつっこんだり。一見毒舌ですが、これがなんというか、同年代で異なる民族の人たちが集まった場合の、典型的なコミュニケーション術です。とっても楽しそうに、うひうひ笑いながら、それぞれの民族のステレオタイプをからかいあいます。

そんな異民族ジョークのなかでも、ドゴンの人はとくに特徴的。わたしの知っているドゴンの人は、「わたしはプチ・ドゴン(ちっちゃなドゴン)です。両親はいまも崖に住んでます。好きな食べ物は粟とたまねぎ」と自己紹介したりします。ドゴンのひとは他の民族に比べて小柄。そして崖のすぐ下に村を形成し、おもに粟とたまねぎを育てている。「田舎の崖で粟とたまねぎばかり食べている小柄な人たち」というドゴンのイメージを相手からジョークにされる前に、じぶんからネタをふる、といった感じです。そのイメージ通り、わたしが知っているドゴンの人は、小柄でどこか控えめで、穏やかな人が多い気がします。

さて、そんなドゴン・ジョークをこれまでよく聞いていたのですが、実際にドゴンの村々を訪れたのは今回が初めてでした。トレッキングで崖をくだり――階段などはなく、足元がおぼつかなかったので写真はとれず――、ドゴンの村に着きました。旅程が2泊3日だったのでちょっと駆け足でしたが、いくつかの村を崖沿いに徒歩でまわり、夜は村に宿泊(電気・ホテルはありません)。最終日は、崖のぼりをして帰ってきました。「山歩き」というにはスリリングすぎる、崖を「よじ上る」感じですので、この旅程は、高所恐怖症の人や運動が極度に苦手な方にはおすすめできません。



早朝。





崖に寄り添うようにこじんまりと家々が立ち並び、そこから静かにかまどの煙がたちのぼり、犬や羊の鳴き声、女性が粟を杵つくこんこんという音が崖にこだましていました。その村のたたずまいに、ふと、東淵明の『桃花源記』を思い出しました。アフリカにいながら、漢詩、水墨画の世界。

崖に沿って、700の村が存在するそうです。ドゴンのことばにはたくさんの方言があり、せっかく地元っ子であるガイドさんに教えてもらったドゴン語のあいさつも、ちょっと離れた村に行くといまいち通じなかったりしました。



一緒に旅したのは、世界中で旅したりお仕事したりしている、快活でとっても美人な日本人女性。マリの首都バマコで知り合いました。彼女とこの崖の連なりを見やりながら、「いやぁ、それにしても、人間ってどんなとこにも住みつくもんだね~」と感心しきり。


マリは、地理的にも民族的にも、ほんとうにさまざまな顔をもった国です。ジェンネからドゴンの地は直線距離で200kmほどしか離れていませんが、ことばも住む人びとも村のたたずまいも、家の建築方式も、まったく異なる。マリの奥深さを見せつけられた、ペイ・ドゴンの旅でした。

2009年11月11日水曜日

「おじいさん」がやってきた。

日本でもそろそろ、クリスマス・年末商戦がはじまるころでしょうか。イスラーム暦(陰暦)のこちらは、あと一週間ほどで12月にはいります。ひと足先に「年末」です。

イスラーム圏では、この月のまんなかに羊の犠牲祭がおこなわれます。アラビア語ではイード・アル=アドハーと呼ばれるそうですが、マリを含む西アフリカのイスラーム圏では、「タバスキ」と呼ばれます。盛装して皆でお祈りをし、友だちの家を賑々しくあいさつしてまわり、ほふった羊を家族みんなであますところなく食べ――という、厳かかつ楽しいお祭です。このお祭りのときには、都市や外国で働いている家族も帰省したりして、ちょうど日本のお正月のような雰囲気。(ただし、日本の祭りに欠かせないお酒はご法度です。)

あと数週間でおこなわれるタバスキ用の羊が、我が家にやってきました。タバスキの日、マリではたいていの家で、一家に一頭の羊がほふられます。家で羊を飼っているご家庭はその羊をほふりますが、わたしがお世話になっている大家さんちには、羊がいません。なので毎年、お祭りが近くなると、市場や牧畜民である知り合いから仕入れてきます。

ジェンネで定期市が開かれる月曜日、大家さんがたいへん満足げな表情で、羊を連れて市から戻ってきました。いつもはお祭りの一週間くらい前に買うので、すこし早い今年の羊さん登場に、子どもたちも大興奮。「ンベー(羊の鳴きまね)だ!ンベーが来た!」「ねぇ、ダーダ(パパ)、これうちで飼うんだよね? 名前つけていい!?」とはしゃいでいます。

大家さん、ずいぶん奮発したようで、今年の羊はいつにもましてご立派。大家さんに値段をたずねると、むふむふうれしそうな顔をして、「けっこう高かったな」言うだけです。値段を明かしてくれません。おととし聞いたときは10万CFA(2万円くらい)とのことだったので、それ以上のお値段かと。大家さんちはジェンネのなかでも比較的お金のあるほうですが、それにしても、たいへんなお買い物です。この出費もすべては犠牲祭を祝うため。一家の大黒柱にとって、この日のためにこのような立派な羊を買えるというのは、甲斐性がある証拠、誇らしいことなのです。

そんなこんなで、この羊さんがほふられるまでしばらくは、庭に羊がいる生活です。大家さんちのちびっ子たちが、さっそく羊に名前をつけました。「ハルベル」といいます。年配のひと、おじいさん、という意味のジェンネ語です。実際はおじいさんと呼ばれるほどの年でもないのでしょうが、ご立派なわりにカモメのような緩い曲線の角、おとなしい性質の羊のなかでもさらにもっそり動くこの羊によく合った、良い名前だと思います。

この羊さん、いつもは中庭の隅で呑気に草をはんでいますが、なぜか夜中は、わたしの部屋のドアのまん前に移動して眠ります。初日だけたまたまかと思ったら、その後もずっと。なにか羊に心地よい「気」が、わたしの部屋の前に漂っているのでしょうか。夜中にトイレに行こうとドアを開けると、「…んべへぇっ」という間抜けな悲鳴が。どうやら、勢いよく開いたドアが羊にしたたか当たってしまったようです。「あ、すいません、寝ぼけてたもんで…」と謝りながら、羊をまたいでトイレへ。なんと牧歌的な生活。

「ハルベル」、すてきな響きの名前ですが、あまり名前を呼んでかわいがると、お祭りの日においしくいただけなくなってしまいそうで…。わたしこう見えて、けっこう情の動きやすいたちなのです。犠牲祭は羊を食べてなんぼですから、ドライに「羊さん」と呼ぶにとどめ、しばし、羊のいる生活を楽しもうと思います。



「ハルベル」とその名付け親の3人。羊の横で、いっちょ前にキメキメの表情の小学2年生がかわいらしい。

2009年11月6日金曜日

ジェンネっ子の誇りが…

きのう18時過ぎ、ジェンネのモスクの一部が壊れてしまいました。町で唯一にして世界最大の泥の建築物であるこのモスク。ジェンネっ子の誇りです。

現在、ある外部団体の支援によるプロジェクトで、ジェンネのモスクを修繕中。その工事中に起きてしまった事故です。修繕のため壁を削っていたところ、削りすぎたようで、壁が薄くなった部分が崩壊してしまいました。けが人もでました。

町のシンボル一部崩壊のニュースは、たちまち町中にかけまわりました。知らせを聞いてすぐ、18時半ころにモスク前に駆けつけると、すでに黒山の人だかり。たいへんな騒ぎです。老若男女、みな心配そうな表情でモスクを見上げています。

正面の壁の一部が、幅5mくらいにわたってなだれ落ちていました。いつも静かに美しいたたずまいのモスクを目にしてきたので、一部の崩壊といえど、これはなかなかショッキングな光景。事故で顔にけがを負ってしまった美しい女性を見るようで、痛々しいです。

昨夜はすでに日が暮れていて写真を撮れなかったので、きょう早朝に写真を撮りに行きました。すると、カメラをかまえるわたしを、あるおじいさんが止めにきました。彼はきれいなフランス語で諭すように、「お嬢さん、これはわたしたちの誇りであるモスクだ。そのモスクのこんな惨めな姿を、写真には撮らないであげておくれ」。

わたしもこのジェンネのモスクは大好きで、この姿には胸が痛むので、おじいさんがこう言いたい気持も分かります。でも調査のためには、これはぜひ撮っておきたいところ…。あぁ困ったなぁ…と思っていたところ、モスクの修繕工事で働いている近所の大工さんが通りかかり、助け舟を出してくれました。「この子はジェンネに住んでいる子です。このモスクの姿を写真に撮って、どこかに売りつけようとしているわけじゃないんですよ。彼女の勉強のためです」と、おじいさんに説明してくれました。

というわけで、おじいさんも理解してくれて写真におさめたのですが、やっぱりモスクと住民のことを考えると痛々しいので、ここに載せるのはやめておきます。わたしも、例えば、じぶんのお母さんが体調がすぐれないときの写真など、他人に見せたくないもの。ジェンネっ子の皆さんも、それに近い感覚なのではないでしょうか。

このモスク修繕プロジェクトにかんしては、住民とプロジェクトの側でいろいろな誤解や説明不足があり、着工前の2006年には、逮捕者やけが人もでる騒動も起きています。それをどうにかこうにか鎮めて、今年にはいってスタートした修繕工事。作業員はジェンネの大工さんですが、現場の指揮者はプロジェクトから派遣されている外国人です(ただし「チュバブ(白人)」ではなく、欧州在住のアフリカの人)。この壁の一部崩壊で、また住民のあいだにプロジェクトや外国人への疑心や不信感が生まれて、ややこしいことにならないことを祈ります。

今回の崩壊について、いろんな人に意見を聞いてまわると、皆さんそれぞれに違うことを言います。たいていが、作業員の仕事のしかたやプロジェクトそのものに対する不満です。でも最後は必ず、「…でも、これも神さまがなすったことだ。神がそう望まれたのなら、われわれにはどうしようもない」と締めくくります。

壁の崩壊はたしかに人為的なミスだろうし、住民の皆さんもそれは十分承知のようですが、最終的にはそれもひっくるめて「神さまのなすったこと」と考えることで、いらぬいざこざやわだかまりが和らぐのでしょうか。

正直たまに、ジェンネの皆さんの敬虔さには、「なんでも"神さまのおぼしめし"とか言って、じぶんたちで努力できる/すべきところも放っているのではないか。それでいて現状に不満ばかり言って…」と思うこともあります。でもこういう場合には、信仰が対立を生むのではなく、信仰が対立をそっと回避する機能をもっているようで、ちょっと安心しました。こういう諦観にも似た捉え方も、静かに生きていくうえでの知恵なのかもしれません。

とにかく、お母さんモスク、はやくもとの姿に戻ってほしいものです。

赤ちゃんことば。

4日間、マリの国内小旅行に行ってました。ペイ・ドゴンと呼ばれる地域です。この旅行の詳細については、またあらためて。

きのう家に着いたときのこと。わたしが出先から長屋に戻ってくるといつもいたクンバ姐さんが、いない。死んでしまったことはもちろん分かってはいたけど、どこかで信じてなかったので、現実を突きつけられた感じでした。からだのまんなかにポカンと穴が空いて、つい、旅行のバックパックを背負ったまま泣いてしまいました。

いつも、はにかんだ顔でわたしに「やぁミク、おかえり」と言って握手し、息子たちに「ほら、ミク姉ちゃんの荷物を部屋まで運んであげな」とテキパキ命じて迎えてくれていたクンバ。大好きなひとが亡くなったということを実感するのは、慌しく過ぎていくお葬式のときよりも、こういう何気ない瞬間です。

さて、めそめそしていても始まりません。旅行なんぞしたぶん、やるべき仕事もたまってるし、もりもり頑張らないと。元気をだすために、きょうはジェンネの赤ちゃんことばについて書こうと思います。この世を去る人もいれば、ぽんと生まれてグングン大きくなっていく人もいるのです。いやぁ、やっぱりこういうときは赤子パワーよねー。

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〇飴玉
フランス語でボンボン。もともとマリにはなく植民地支配後にフランスがもたらしたものなので、マリでも飴のことはボンボンと呼びます。でも、赤ちゃんが発すると、たいてい「もんもん」になってしまう。お兄ちゃんお姉ちゃんたちがボンボンを食べていると、「もんもん!」と叫んでおねだり。

あぁそんなかわいいおねだりされちゃうと、つい、いくらでも飴ちゃんをあげたくなってしまう。でも、こちらの子どもは歯を磨く習慣があまりないので――つい最近まではこういう甘いものは身近でなかったので、歯を磨かなくても虫歯にならなかったそう――、ぐっと我慢。お祭りなどの特別な日に、知り合いの子どもに一粒ずつ、「はい、もんもんだよ」と言いながらあげます。

〇小鳥
これは赤ちゃん自身が言うのではなく、おとなが「ほら、小鳥さんだよ~」という感じで赤ちゃんに語りかけることば。「ちゅぅちゅ」といいます。日本語のすずめやねずみの鳴き真似に似てますね。

お父さんやお母さん、お兄ちゃんお姉ちゃんが、赤ちゃんをだっこして小鳥を指差しながら、「ほらっ、ちゅぅちゅ!」と言っている姿は、赤ちゃんとセットで、なんと幸福な光景&響き。

〇チュバブ
マリで「白人(外国人)」を意味することば。日本語風にすれば「がいじん」といったニュアンスで、あまりいい言葉ではありません。でも、赤ちゃんはそんなこと知ったこっちゃないさ。お兄さんお姉さんの真似をして、わたしのことを「チュバブ」と呼びたいけど、まだ舌足らず。たいてい、「ちゅあぅ」となる。

あるていどの年齢の子どもに「チュバブ!」と呼ばれたら、「わたしにも名前があります。『白人!』と呼ぶのではなく、まずは名前をたずねるのが礼儀じゃないかね?『そこの黒人!』と声をかけられて、君たちはお返事をするかね? ん?」などと説教する、われながら面倒くさい意地悪ばあさんなわたし。でも、赤ちゃんに「ちゅあぅ~」と呼ばれたら、つい「あら、なぁに?」と優しく返事をしてしまう、ふぬけなわたし。赤ちゃんって得ね。

〇羊
ジェンネのいたるところでうろうろしている羊。赤ちゃんはなぜか、羊さんが大好き。同じくジェンネにたくさんいるロバほど大きくなく、野良犬ほどハードな雰囲気を漂わせておらず、鶏や鴨ほど予想外の動きをしないからでしょうか。羊を見かけると、たいていの赤ちゃんが、「んべー、んべっ!」と指さして大興奮。

「んべー」とか「んべっ」は、羊の鳴き声をまねたもの。日本で羊の鳴き真似といえば「め~」ですが、実際に聞いてみると、「んべー」のほうが正確に再現している気がします。誰が教えたわけでもないのに、赤ちゃんの声帯模写能力、おそるべし。

〇礼拝
これはことばではなく、仕草ですがご勘弁を。

1日5回の礼拝をかかさないお父さんやお母さんを見て、赤ちゃんも礼拝のまねをしたがります。おでこを地面につける姿勢をまねようとするも、たいていの赤ちゃんは失敗。

皆さんご存知のように、かれら赤ちゃんは、からだ全体に比して頭が大きい。腕の力もない。なので、頭を地面ぎりぎりまで下げようとすると、重いおつむは重力に負けて、そのままごん!と地面にぶつかってしまいます。そして大泣き。

でも、メッカに向かっておじぎのようにひょこひょこと頭を下げている姿は、ほんとうに愛らしい。こうやって礼拝を覚えていくのね~。

2009年10月30日金曜日

しゃんとしたひと。

月曜日に、また、お隣さんをうしなってしまいました。わたしがジェンネでいちばん慕って信頼していた女性クンバです。だんなさんが亡くなって一ヶ月半で、彼女も逝ってしまいました。まだ40前くらい。まだまだ若いのに。おうちで寝込みはじめて2週間で、みるみる元気がなくなっていって、あっというまでした。病名は分かりません。

清貧で謙虚で、曲がったことが大嫌いで、しゃんとした人でした。フィールドでお隣さんだったから特別にかんじるのではなく、これまでのわたしの人生でも、こんなに信頼できるきちんとした人に出会ったことは、とても少ない。にひひっ、と照れ笑いすると、ふだんのちょっと険しい表情とのギャップもあいまって、見とれてしまうくらいかわいかった。大好きな女性でした。

ここ数日、彼女のことばかり思い出されます。生前の彼女はよく、考えごとをして止まっているわたしを、ちょっと離れたところからじぃっと見てきた。わたしがその視線に気づいて「ん?」と彼女のほうを見ると、彼女はふっと目をそらします。そして、お米をといだり薪を割る作業に戻って、何気ないかんじで、「ミク、いま止まってたでしょ?」と、くすっと笑ってきました。楽しいこともたくさんだけど、いろいろと苦労のたえないここでの生活で、彼女の静かな気遣いにどれだけ助けてもらったか。――あぁ悲しいなあ。

もっと悲しくてたいへんなのは、お父さんとお母さんを相次いでなくした子どもたちだと思います。マリでは早くに両親をなくすケースはそれほどめずらしくありませんが、クンバの子どもたちも、どうか頑張ってほしいです。

彼女に怒られないように、めそめそ泣くのはやめて、しっかり調査・勉強をつづけたいと思います。こんなに悲しいのは久しぶりです。ほんとうにステキな人と会えたことを、彼女たちの神さまに感謝しようと思います。

2009年10月26日月曜日

巡礼の心得。

もうすぐ、メッカ巡礼の季節です。メッカへの巡礼は、ムスリムの皆さんにとって五行(信仰告白、1日5回の礼拝、ラマダーン月の断食、喜捨、巡礼)のひとつ。巡礼の月は太陰暦の12月、日本のカレンダーだと、今年は11月19日~12月17日にあたります。

マリはムスリム90%の国。たくさんのマリ人の皆さんが、メッカへ巡礼にいきます。国営放送のニュースによれば、6500人。マリからメッカに行くには、飛行機に乗ってサウジアラビアまで行って、何日間も宿泊して…と、なにかとお金がかかる。6500人は多いように思えますが、行ける人は限られています(マリの人口は約1200万人)。首都バマコにはメッカ巡礼専門の旅行代理店もあり、以前そこで調べてみたところ、いちばん安くて100万CFA(20万円)くらい。たとえば大工さんの日給が2000~3000CFAくらい、小さなキオスクを経営している人が貯金にまわせる額が、月に1万CFAくらいだそうですから、かなりの高額です。

メッカに行ける行けないにかかわらず、ムスリムの皆さんにとって、巡礼の月というのは特別なようです。マリの国営テレビの放送でも、そのムードは高まっています。「メッカでの巡礼の手順を練習する講習会を開きます」といったお知らせも流れます。また、「巡礼にむけた心得」のようなものが、寸劇形式でわかりやすく放送されます。これがなんだかおもしろい。

「心得」は3つ。寸劇のおおまかなストーリーに沿ってご紹介します。台詞はすべて、公用語フランス語でなく、マリのリンガ・フランカであるバンバラ語です。(うろ覚えなので、台詞の再現はかならずしも逐語訳ではありません。)

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〇心得1『シャワーとトイレの使い方を知ろう。』

舞台は、巡礼先のメッカの宿泊所。びしょ濡れになって驚いた様子で登場するおじさんA。トイレ兼シャワー室からでてきたところ。Aを見て「一体どうしたんだ?!」と驚く友人B。「つまみをひねったら、なんか、上からどばぁ!と水が降ってきたんだっ…!」と混乱しているA。どうやらAは、シャワーの存在を知らない。シャワーの使い方を知っているBは、「それはシャワーってやつだよ! お前、水だしっぱなしにしてきたのか?」と、シャワーの水を止めに行く。

その後ナレーションがはいり、映像とともに、ていねいに水洗トイレやシャワーの使い方が説明される。「トイレを流すときは、タンクのうえにあるボタンを押します」「シャワーの青い色がついているほうは水、赤い色のほうはお湯です。両方の蛇口をちょっとずつちょっとずつひねって、水の温度を調節しましょう」などなど。

〇心得2『外国では貨幣の価値が違います。』

メッカのとある宿泊所に泊まっている女性たち。おばさんAが、満足げに宿に戻ってくる。「ほら、このショールきれいでしょ? そうそう、礼拝用のじゅうたんも買ったのよ~ぉ」と、うれしそうに品々を自慢するA。メッカの町でお買い物をしてきたらしい。「で、いくらしたの?」と聞く同室のB。A「5000だよ」B「つまり、セーファ(CFA、マリをふくむフランス語圏西アフリカの通貨単位)だったらいくらよ?」A「へ? いっしょの5000じゃないの?」B「あんた、それが、違うらしいのよ。確認したほうがよくない?」ということで、ツアーコンダクターらしき若いマリ人男性Cが部屋にやってくる。

A「ねぇ、このお札、セーファでいくら?」C「5万CFAですね」A「うそっ…わたしそんなに使っちゃったの!? もう残りこんだけしかないのに…」と頭をかかえるA。Cがくるっと振り返って、カメラ目線でテレビの前のみんなに注意をうながします。「外国の通貨の価値は、セーファと一緒ではありません。気をつけましょう」

〇心得3『飛行機にのせられる荷物には制限があります。』

頭にスポーツバッグ、両手にボストンバッグ、首にも袋やら服やらをぶらさげているおばさんA。メッカに向かう旅のため、マリの自宅を出るところです。その大荷物を見て、おどろく近所のおばさんB。「そんなにたくさん荷物もっていくの? 飛行機にはそんなに積めないわよ?」A「どれも必要な荷物なのよ。大丈夫よ~、飛行機は大きいし」B「飛行機では荷物を量って、重すぎたら積めないらしいわよ」

Bの忠告を聞かずに、大荷物のまま飛行場についたA。飛行機に乗り込もうとすると、案の定、係員に止められます。手荷物1個のほかの乗客は、彼女を追い越して、つぎつぎに乗りこんでいく。

そして次のコマで、泣く泣くひとつだけバッグをもって飛行機に乗り込むA。滑走路には、置いていかざるをえなくなった大荷物が、ぽつんととり残されています。

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「巡礼の心得」というより、「はじめての海外旅行の心得」といった感じですが、この短い宣伝番組は、政府の「巡礼事務局」によって制作されています。観光局や外務省ではありません。

高い旅費がかかるといっても、水洗トイレとシャワーのついた首都の豪邸に住み、飛行機で海外旅行に何度も行ったことのあるお金持ちだけが、メッカ巡礼に参加するのではありません。トイレは穴、水浴びは井戸水をバケツで、飛行機は見たこともない、という田舎の人でも、巡礼に参加します。自分たちの村のイマーム(共同体の宗教的導師)のおじいさんを、念願のメッカ巡礼に参加させようと、村じゅうでちょっとずつお金をだしあう場合もあると聞きます。

「心得」のチョイスに、なぜあえてこの3つ? という疑問がわかないわけでもありませんが、おそらく、これまでに何度も、問い合わせやトラブルがあった事例なのだと察せられます。

皆さん、よい巡礼をしてマリに戻ってこられますように。特に、シャワーの蛇口のひねりすぎには気をつけていただきたいです。すでにシャワーの使い方を知っているはずのわたしですら、たまに「熱っ!」とか「冷たっ!」と、痛い目に遭います。

2009年10月24日土曜日

ブラコロ!

きのう、ジェンネの町を歩いていたところ、12,3歳の男の子に声をかけられました。「シノワムソ!ヒーホン!シンチャンチョ~~ン」――これは、マリの人がわたしを呼ぶときによく使うことばです。「シノワ」は中国人、「ムソ」は女の意味で、「ヒーホン」はおそらく「你好(ニーハオ)」。そのあとにつづく言葉は人によって違いますが、中国語風に適当に言っているのだと思います。

なぜフランス人には「フランス人!」と言わずに「ムシュー」とか「マダム」と呼びかけ、アジア人には「シノワ!」なのか。そこらへんの区別に、マリの人の欧米人への、「反発と同時に卑屈」という屈折した感情と、アジア系への差別意識が垣間見える気がします。なので、こう呼びかけられると、なんだかイヤぁな複雑な気持がします。でも、いちいちそれに反応していては街を歩けないくらい、この呼びかけは頻繁です。(もちろん、誰に対しても変わらず接する人たちもたくさんいます。)

たまにこの呼びかけに、空手かカンフーを真似ているらしき、妙なポーズがついてきます。これはさすがに、中国の人にも私にも失礼すぎると思うので――だって、通りすがりの初対面の人に、武道のポーズで今にも蹴りかからんとしてくるなんて。どんなしつけを受けてきたんだか――ので、わたしは「ひざかっくん」で切り崩します。こちらの人が真似るカンフー風のポーズは、たいてい不安定な片足立ち。なので、立っているほうの足のひざを裏から軽く押すと、すぐ倒れます。

こういう人たちに腹は立ちますが、怒ったわたしがひざかっくんをしてこけさせても、こちらの人はまず怒らない。あっけにとられた感じで、「ハハハ、さすがシノワ・ムソ! すごいね~その技!」などと笑って、砂をはたきながら立ちあがってくる。マリの人たちのこういう穏かさ・軽やかさは、けっこう好きです。それを見ると、『人をばかにしたような変なあいさつしてくるけど、別に根っから悪い人でもないよなぁ』と可笑しくなります。

話がそれました。きのうの男の子の話。シノワムソ、ヒーホン云々でよしておけばよかったのに、その男の子は、さらにすれ違いざまに、「ブラコロ!」と言ってきました。これにはびっくり。

「ブラコロ!」は、マリでは子どもがおとなにたいして決して言ってはいけない侮辱表現です。アメリカの道端で、まったく知らない大人に中指を立てながら、例のfからはじまる4文字ことばを発するくらい、失礼なことです。(たぶんね。アメリカに行ったことないのでよく分かりません。)「ブラコロ」ということばは、明らかに冗談で言っていると分かる場合以外に発すると、おとな同士でも大喧嘩に発展することがあります。まして子どもが見ず知らずのおとなに言うなんて、アンビリーバボー。

これはバンバラ語のことばで、「ブラ」とは「よく焼けた」、「コロ」とは「トカゲ」の意味。直訳すれば「よく焼けたトカゲ」ですが、暗に意味されているのは、「トカゲを焼いて食う奴=割礼前の人間=一人前じゃない奴、"ガキ"」。わたしの知る限りですが、マリで人を侮辱するのに、このことば以上に失礼なことばはありません。アラビア語起源の「アル・ハラム!」(不信心者!)という表現もたびたび耳にしますが、これは悪さをしたり礼を欠いた子どもにたいして親が使うことばで、侮辱というより、叱るための表現です。

さて、なんで「トカゲを焼いて食べる=割礼前」なのか。こちらには、10~20cmくらいのトカゲがたくさんいます。いまこれを書いているネットカフェの床にも、数匹がせわしくちょろちょろろろろ。マリの田舎の子どもは、たまにこれを捕まえて皮をはぎ、焼いて食べます。(肉質は鶏のササミみたい。塩をふるとおいしいらしい。)でもそれは、割礼儀礼をまだすませていないくらいの、小さな子しかしない行為だとされています。「社会性を身につけていない子どもが勢いでする野蛮な行為」といった印象。

さらに、なんで「割礼前="ガキ"」なのか。マリでは男女ともに、割礼――男の子のばあい陰茎の包皮切除、女の子のばあい陰核の一部切除――をほどこすのが一般的です。割礼の施術には国内外から賛否両論がありますが、ふるくからおこなわれ、今でもかなりの確率で行われる儀礼であることはたしかです。乳児死亡率が10%を超える(つまり10人の赤ちゃんのうち1人以上が1歳未満で亡くなる)マリでは、割礼ができる年齢までこどもが育ったということは、親や地域にとってよろこばしいこと。割礼儀礼は、親御さんと子どもにとってのお祭りでもあります。民族や地域によって割礼を受ける年代にちがいはあるそうですが、ここジェンネでは、3~10歳くらいのあいだにおこなわれます。つまり、割礼を受けていないということは、いくら大人の風貌であろうが、「ガキ」扱いなわけです。

12,3歳の子が、何を思っておとなのわたしに「半人前のガキめが!」というニュアンスのことばを吐いてきたのか分かりませんが――単にお友だちの前で悪ぶってみたかったのか、わたしがことばの意味をわからないだろうから馬鹿にしてやろうと思ったのか――、とにかく、これはイケマセン。お仕置きしないとイケマセン。とっさにその男の子の腕を力いっぱいつかんで、「こらっ!」とほっぺを平手打ち。ぺちん、という音のへなちょこビンタでしたが、さっきまでのいきりはどこへやら、男の子はわぁわぁ泣き出してしまいました。

その泣き声を聞いて、わらわらと人が集まってきました。その子の腕をぎゅっとつかんだまま、「あなた、自分の言ったこと分かってるわね!?」と叱っているわたしに、野次馬のおじさんが「どうしたんだ!?」と聞いてきます。「この子がわたしに、突然、ブラコロ!と言ってきたんです」と説明すると、野次馬の皆さんも喧々諤々。「あ~、それはいけない!」「お前、なんてことを!」「この子はまだ何も知らない子どもだ。そんなことを言われても、お嬢さん、どうか気にしちゃだめだよ」「まったく、どこの子だ!」などなど。

こうしたまわりの人びとの反応を見て、あらためて、「ブラコロ」ということばはたいそうな侮辱言葉なんだなぁ、それに、割礼してるかしてないかって、ここでは大きいことなんだなぁ、と思い知った次第です。

――ま、実を言うとわたしは割礼を受けていないので、ブラコロっちゃぁブラコロなんですけどね。あの男の子は、ある意味、間違っていない。トカゲもどんな味なのか、ちょっと食べてみたいし…。(でもそうすると正真正銘の「ブラコロ」になってしまうので、やめておこう。)


【写真1】割礼を祝うお祭りが始まるところ。盛装した子どものお母さんたちや近所の人たちが集まって、歌って踊っての大騒ぎ。この前日には、近所の人たちに盛大な食事もふるまわれます。


【写真2】 割礼後の子どもたち。近所や親戚の割礼適齢期の子どもたちを集めて、まとめてやります。このようにお揃いの服・御守を身に着けて、「大人の心得」などを歌や踊りの形式で、世話役のおばあさんから教わります。

2009年10月20日火曜日

建設ラッシュinバマコ。

所用のため月曜日から日曜まで、マリの首都バマコに滞在していました。

「めざましい発展」ということばがぴったりなくらい、今のバマコは、来るたびにどんどん「モダンに」変身中。わたしが初めてマリに来た2004年には、めったに見かけなかった新車の日本車やヨーロッパ車も、今では当たり前のようにたくさん走っています。値段を聞けば、日本で買うのと変わらない立派な金額。こちらと日本の物価の差を考えたら、日本で新車を買うよりずっとたいそうなお買い物のはずですが、わたしと同年代の若いマリ人夫婦が乗りまわしていたりします。

またバマコには、じつにたくさんの建設現場が。会社のビル、ホテル、個人の立派な邸宅、そして大規模な道路の立体交差。街の中心を流れる大河ニジェール川にかかる三つ目の橋も、ただいま建設中です。街を歩けば、つねに聞こえてくるドンカンドンカン、ウィンウィン、ガゴゴゴゴ。大きな工場のなかに住んでいるみたいです。高度経済成長期の東京も、こんな感じだったのでしょうか。

建設ラッシュのバマコには、中国の建設会社がたくさんはいっています。あちこちの建設現場で、図面を広げたりマリ人の作業員に指示をだしたりしている、中国人の男性たちを見かけます。

バマコで居候させてもらっているお宅のとなりも、マンションの工事現場でした。毎日、早朝5時から夕方5時くらいまで、みっちりお仕事がつづいています。ときには真夜中にも、重機が元気に稼動する音が聞こえてきました。ライトもないのに、暗闇のなか重機作業して大丈夫なんだろうか。

この現場も、例にもれず、中国の建設会社が請け負っています。作業員はマリ人の若い男性たち。中国語の怒号は、中国人責任者の男性の声でした。「うわぁ厳しいなぁ、そんなに怒鳴らんでもよかろうに…」と思いながらその怒号を聞いていましたが、居候先の方いわく、「別に怒っているわけではなく、マリ人の作業員に指示を出しているだけらしい」とのこと。どう控えめに聞いても、中国語の分からないわたしには、彼が怒りまくっているようにしか聞こえない。

たしかに現場の様子を見ていると、この責任者のおじさんがいなくなった途端に、作業員のマリ人のお兄さんたちは、おしゃべりに興じたり昼寝をはじめたり。あきらかにだれてしまいます。だからまぁ、現場責任者としては、これくらい厳しく接さないといけないのかもしれませんが…。

とってものんびりと、とってもせっかち。どちらも極端やなぁ、と、その漫画のようなコントラストを窓から眺めていました。「中国の会社から相場より安い値段で雇われているから、マリ人の作業員は隙あらばサボタージュしようとしているらしい」といううわさもバマコではよく聞きますが、さすがに責任者のおじさんの前で、作業員のお兄さんたちに日給を尋ねることははばかられました。真相は分かりません。

バマコからジェンネへ帰る日、長距離バスに乗るため、まだ暗い早朝5時に居候先を出ました。すると道端で、隣の現場のおじさんが、指先までぴんと伸ばして力いっぱい体操している姿を見かけました。おじさんは、家やホテルではなく、現場近くの掘っ立て小屋のようなところで、ひとりで寝起きをしているようです。たしか前夜は、作業員が帰った夜中にも、自ら重機を操縦して作業していたのに。いやぁ、すごいパワー。会社から派遣されて、中国の家族と離れてもりもり働いて、ひとりで小屋に寝起きして、伝えようと声を張るあまり現地の作業員には疎まれて…早朝からキビキビ体操にいそしむおじさんのその姿が、わたしにはちょっと切なく感じました。

ちなみに、マリ人の作業員のお兄さんたちは、中国語を話せません。責任者の中国人のおじさんは、フランス語も現地語も話せません。それでもなんとか指示が伝わっているっぽいのは、やはり声の大きさのおかげか。よく「愛があれば国境なんて」と言いますが、「声を張れば国境なんて」ということなのかしら。

中国ビジネスinアフリカ。自分流を通しすぎてもいけないし、郷に入れば郷に従いすぎてもいけないし。いろいろ難しいよなぁ、と思うのでした。






写真は、ジェンネ~バマコ間の道にあった、建設中の鳥のマンション。マリは国内4か所(トンブクトゥ、ガオ、ペイ・ドゴン、ジェンネ)の世界遺産めぐりだけでなく、バードウォッチングのスポットとしても、外国人観光客に人気です。欧米から「鳥を見にきた」という観光客もたまに見かけます。鳥マンションも、いたるところにあります。

2009年10月10日土曜日

ネズミとの闘い、ジェンネにて。 La lutte contre la souris à Djenné

長いことネズミに悩まされてきました。ジェンネのわたしの部屋には、ネズミが出没します。わたしのところに限らず、ジェンネのたいていの家で、やつらは我がもの顔でチューチュー走り回っています。

わたしは人間以外の動物に特別な愛情をかたむけることはあまりないけど、かといって苦手とか嫌いというわけでもありません。笑顔で撫でまわすわけでもなく、大慌てで逃げ出すわけでもない。動物からしたら、もっとも害のすくないタイプの人間かもしれません。

そんな動物にニュートラルなわたしも、ジェンネのネズミは嫌い!かれらには腹を立てています。日本の都会に住んでいるとあまりネズミを見かけませんが、ジェンネにはわんさかいます。

ひとが眠っているときに、2,3匹で楽しげにわたしのまわりを走りまわって安眠を邪魔する。お茶パックや砂糖などを保管している袋を開けると、「ちゅっ!? びっくりしたっ!」と叫びながら飛び出してくる。それにかれらは、小さなフンをたくさんする。そんな小さな体でこれほどお通じが良くて大丈夫ですか? と余計な心配をしてしまうくらい、ぽこぽこ出しては部屋のあちこちに置いていく。わたしの大事な本に、たまにおしっこもひっかけていく。よりによってなぜ本の上に。このおしっこがまた、かなり独特な臭いで、とても気に障る。たまに、昼寝しているわたしに勝手に突進してきて、勝手にびっくりして噛みついてくる。

なにが悔しいって、これだけの悪さをするくせに、見た目がとってもかわいいことです。夜中に物音がして、「また出たな、鼠小僧!」と、ランプをかざしながら部屋の隅に追い詰めたときの、ネズミのその姿ったら。突然の光におびえて微動だにできず、ちぃちゃくて、尻尾はしゅんと垂れ、いつもより弱々しく「…ちぅ…」と鳴く。こちらを上目遣いに見やって、許しを乞うてくる。くそぅ、かわいいじゃないか。わたしがそのかわいさにも屈せず、退治しようと棒を振りかざすと、「ふっ、ちょろい人間め。わたしのかわいさにひっかかりおって」と言いながら、さっきまでの硬直が嘘のように、チュチュチュ! と勢いよく逃げていく。憎たらしいっ。

そんなネズミとの攻防をつづけて数ヶ月。先日、ネズミ事件が起きました。その前夜、お祭に向けた町内の話し合いに参加して、夜10時半頃に部屋に戻ってきました。扉を開けたら、部屋がとても臭い! 家を出た午前中にはしなかった、なにかが腐った臭いがする。不審に思いましたが、この日は暑いなかずっと外で調査してへとへとに疲れていたので、臭いのもとは追求せず、いつものように屋上で寝ました。さすがに部屋の外までは、臭いはもれてきませんでした。

そして翌朝。早朝のさわやかな日光のなかで部屋を隅々見まわして、臭いの原因が判明。――あぁ、床のうえでネズミが死んでいるよ。しかもどういうわけか、つぶれて腐っているよ。おえっ。ジェンネの道端では死んでしまったネズミをよく見かけますが、たいていはすでにカラっと乾燥しているので、そんなにむごい感じではありません。むしろどこか哀しく滑稽。でも、室内でぐじゅっとしたネズミはさすがに凄惨で、気持悪い。そして臭い。

あぁ、朝からめんどうな事件に巻き込まれてしまった…。できれば見なかったことにさせていただきたい…。でもこの臭いはたまらないし、この状態のネズミから変な病気でももらったらたまりません。伝染病の媒介はネズミの得意分野といいますし。というわけで、ネズミ確認後30秒で、迅速にお掃除開始。こんなときつくづく、自分があまり敏感な性質の女の子でなくてよかったなぁ、と思います。鈍さも時には大事なのです。

まずはネズミのうえにどさっと砂をかけて、そのじっとり感を除去。そして砂ごとほうきですくってお外にぽい。刑事ドラマでよく見る、亡くなった形そのままをチョークで線引きしたようなネズミ形のしみが、コンクリの床についています。これが憎き敵の最期の姿かと思うと、さすがにかわいそう。そのしみに軽く合掌しつつ、においをごまかすため香水をふりかける。周辺にあった物を外に出し、豪快に水洗い。最後は部屋全体をほうきで掃いて、粉洗剤を溶いた水でコンクリの床を拭きあげる。臭いがまだ強く残っているので、こちらの伝統的なお香と木の根でできた薬を適当に混ぜて、炭にのせてもくもく焚く。朝から大掃除して汗をかいたので、自分自身も水浴びして完了。スッキリ。

水浴びから戻ってくると、お隣のクンバ姐さんが「ミク、おはよう。早朝からお掃除ごくろうさん」と声をかけてくれたので、ネズミ事件を説明しました。すると彼女は、「毒を盛れ。うちにも三ヶ月前までたくさんいたけど、毒を置いたら一匹残らずどこかへ行ったよ」と言います。三ヶ月前…うちにネズミが増えてきた頃や。姐さん、きっとその「どこか」は、隣の私の部屋です。

彼女によると、店で「殺鼠剤」が売っているとのこと。実は数週間前、スプレーの殺虫剤(蚊用)をたっぷりふりかけた粟の毒団子を手作りして置いてみたのですが、あやしさを察知したのか、ネズミは素通り。殺虫成分が強すぎて、むしろそれを作った自分の手のほうが荒れてしまう、という苦い結果に終わったことがありました。なぁんだ、店で売ってるのか。こんなことなら早くクンバ姐さんに相談すればよかった。

さっそく買ってきた殺鼠剤がこちらです。


バンバラ語で「ニニェファカラン」。1g入りで75CFA(約15円)。中身は紺色の粉。中国は天津製。中国語とフランス語表記なので、おそらく、フランス語圏アフリカ輸出向けの製品だと思われます。1g15円の殺鼠剤までアフリカに輸出とは、さすが中国ビジネス。守備範囲が広いというか、ニッチというか…。

食べかけのスイカにこの粉をふりかけて、部屋に置いてみました。スイカに毒の粉をかけながら、「今度こそは!」とどこかルンルンしている自分が、非道なやつに思えてきました。でもやはり、ネズミから伝染病をもらったりしている場合ではないので、ここは心を鬼にして毒を盛る。クンバ姐さんいわく、「1日半待て。やつらは絶対にひっかかる」とのこと。効果やいかに。

***

ネズミ事件の報告を書いていると、無性に開高健の『パニック』が読みたくなってきました。彼のデビュー作なのでご存知の方も多いと思いますが、 "ネズミ・パニックもの" の小説です。中学の頃にはじめて読んだ開高作品がこれ。当時思春期の小娘にとっては、時代設定が微妙に古臭く、しかも彼の文体がどこか男くさく感じられて、いまいち好きになれなかった。思春期もとうに過ぎ、ネズミの不気味さを思い知った今なら、この作品をぞんぶんに楽しめそうな気がします。

2009年9月30日水曜日

商売熱心、研究熱心。

比較的過ごしやすい雨季のはずなのに、雨がさっぱり降らず、とても暑い毎日がつづいています。寝苦しいので、皆さん寝不足気味。わたしもどうもふらふら。マリの南部や西アフリカの沿岸部は、大雨のためあちこちが浸水して、ひどいところは洪水になっているそうですが。その雨をちょっとこちらにも降らせておくれ、神さまよ。

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ある商売熱心な友だちのはなし。

ジェンネの友だちに、ファトゥマタという女性がいます。ジェンネに来たことのある観光客の方なら、もれなくこのファトゥマタに「つかまった」ことがあるのではないかと思います。彼女は、外国人観光客向けにおみやげを売っています。店は構えておらず、自作のアクセサーを入れた盆を頭に載せ、観光客のいそうな場所に出没しては、(けっこう強引に、けっこうなお値段で)商品を売りまわっています。

わたしもジェンネに来てすぐは、彼女のターゲットになりました。「わたし観光客じゃないんですよ。買わないって言ってるでしょ?」「買えとは言ってないじゃないの! 見るだけでも見てみなよ! ほら、これなんてあなたに似合うんじゃない?」「そんなこと言って、買うまで離さないんでしょ!?」などと、毎回互いに喧嘩腰。この道15年という彼女の執念深さ、まさに蛇のごとし。頭にはアクセサリー、背中には赤ちゃんという勇ましい姿で、1時間でも2時間でも追いかけてきます。

当初はそんな険悪な雰囲気だった私たちも、今ではお友達です。わたしは意地でも買わない、ファトゥマタもそれを分かっていながら生活のために一切引き下がらない、という毎回のお決まりパターンに、5回目くらいで、互いに「ふぅ…おぬしもしぶといのぅ!」という感じの、妙な連帯感がめばえました。ふと「まったくあなたってカラバンチ(頑固、強情)ねぇ…」と彼女が笑いながら言い、わたしが「いやいや、あなたには負けるね。ところで今さらだけど、あなたのお名前は?」という会話が、お友達になったきっかけ。

その後は、彼女のわたしに対する商売っけはすっかりなくなり、おうちに招待してくれたり、売れ残った商品をプレゼントしてくれたり。それでも未だに、彼女につかまってしまった観光客を見かけると、『頑張って…!』と、彼女ではなく客のほうを応援せざるを得ません。それくらいしつこい、いや、たいへん商売熱心なのです。生活かかってますから。

そんな熱心な彼女から、先月、ある相談を受けました。「どうも最近、アクセサリーの売れ行きが悪い。ミクはチュバブだから、チュバブの観光客たちがどうしてこれを買わないのか、分かるかもしれない。どうしたらいいと思う?」と。

彼女のつくるアクセサリーは、なかなかかわいい。ビーズ・ネックレスは特に、女性らしい華やかさがあってうまいなぁ、と思います。でも、以前から気になる点がふたつ。素人がひとの商売に口だしするのははばかられるけど、助言を求められたので、思い切ってそれを伝えてみました。

ひとつは値段。マリの商売では値切りが常識です。相場や底値はありますが、値段が決まっているのは、砂糖やパン、油などのごく一部の商品のみ。市場や道端での売り買いは、交渉によって値が変わります。売り手はまず高い値段を提示して、買い手は低い値段を提示。そして互いに合意できる値段に歩み寄っていきます。こんな感じで。

「これが売れないと、明日からの米を買えないのよ。3000で買いなよ」「おたくの米事情なんて知らないわ。こっちもそんなお金はないの。1000でなら買うけど」「1000 !? そんな安値は無理。こっちだって5時間かけて作ったのよ? 仕方ない…500値引きしてあげる」「2500ってこと!? 全然値引いてないじゃない!…仕方ない、1500までなら譲ろう」「え~ぇ、1500~ぅ?」「そこまで下がらないなら買わない。もう帰ります。ばいばい」「あ!ちょっと待ちなよ! …2250でなら売れないこともないわね」「もう一声」「仕方ない、今日は特別よ。2000でいいわ」「…2000ね、悪くない、買った。」

ここまで読まれてお気づきかと思いますが、つまりは面倒なのです。書いて再現しながら面倒な気分になったくらい。元気なときにはこうした交渉も楽しいけど、疲れているときや急いでいるときに、40度の気温のもとでこれを繰り広げるのは、ちょっと大変。値札や定価に慣れている外国人観光客相手にこの戦法では、うまくいかないのではないかと思うのです。外国人の皆さん、特に年配の方々は、高めの値段を吹っかけられた最初の時点で戦意喪失・即時撤退。たまに「ふっかけやがって!」と猛烈に怒りだす人もいます。でもファトゥマタは、律儀にも? 外国人観光客に対していつもこの値下げ交渉戦術をとります。

というわけで、ファトゥマタへの「チュバブのミク」からのひとつめのアドバイスは、「定価を設定する必要はないと思うけど、あまり高すぎる値段から交渉を始めないほうがいいのでは」ということ。「特に年配の観光客を長いこと引き止めないほうがいい。彼らはあなたが思っている以上に暑さに弱い。彼らのやけどのように赤くなった肌と、疲れきったあの表情を見てごらんよ。それにチュバブは値札のない商品や値段交渉に慣れていない」。彼女は、「チュバブの国の商品には、全部値札がついてるの?」と驚きつつ、「なるほどね、分かった」とうなづいてくれました。(しぶとさが売りの彼女なので、このアドバイスを実践しているかどうかは知りません。)

ふたつめは、彼女が作るアクセサリーの色。マリの人は、マリの国旗の色が好き。服やアクセサリー、舟や自転車、食器のペイントにまで、好んで用いられます。その色は、赤・緑・黄のいわゆる「ラスタ・カラー」です。日本だとこの三色の組み合わせは、よほどレゲエ好きの少しはじけたお兄さんの服装などでしか見かけませんが、こちらではいたってポピュラーな組み合わせ。

ファトゥマタも例にもれず、よくこの三色を商品に用いています。そりゃ、買うほうも買いづらいわな。自分の国――フランス、スペイン、イタリア、ドイツ、アメリカからの観光客が多い――に帰って、赤・緑・黄が一堂に会したブレスレットをつける機会は、そうないと思います。マリ旅行帰りのお母さんがこのブレスレットをつけていようものなら、パリジェンヌの娘は「ママン、それ、全然イケてないわ」と一蹴すること必至。

というわけで、 ファトゥマタへの「チュバブのミク」からのふたつめのアドバイスは、「チュバブは色がシンプルなほうを好む。たとえばひとつのブレスレットに一色、せいぜい二色」ということ。彼女は、「でもさぁ、赤・緑・黄ってキレイでしょ?」と渋ります。「たしかに、あなたたちの肌の色にはキレイだと思うけど…。彼らの服を見てみなよ、茶色とか黒、白ばっかりで一、二色しか使ってないでしょ?」。彼女は、「う~ん、一色ねぇ…。分かった。ひとまず一色だけのブレスレットを作ってみて、その評判をみてみるわ。ありがと」と言って帰っていきました。

そしてしばらく会わぬまま、今朝。わたしに気づいたファトゥマタが、広場の向こう側から揚々と近づいてきます。いつもどおり、頭にはアクセサリーが載ったお盆、背中には赤ちゃん。そして今日は上機嫌。「わが友よ~!わが友ミクよ~!」とか大げさに叫びながら近づいてくるので、ちょっとはずかしい。

どうやら先日のアドバイスは功を奏したようで、「けっこう売れてるのよ。いや~、ありがとね~」とのこと。「で、なにがよく売れる?」と聞くと、「これ」と言って見せてくれたのは、黒一色のビーズのブレスレット。「これ、よく売れるのよ~。特にチュバブの年配のお客さんに」

「ほら、だから言ったでしょ?」と胸を張るわたしに、「それにしても、これ、そんなにキレイかねぇ…」とまだすこし納得がいかない様子のファトゥマタ。まぁわたしも、せっかくマリまで来て、自分の国でもごろごろ売ってそうな黒いビーズのアクセサリーを買って帰るのは、ちょっと味気ないよなぁ…とは思います。

パリでエッフェル塔の置物を、ハワイでド派手ハイビスカス柄のシャツを、京都で「祭」と書いた法被をお土産に買っていく人たちもいるんだから、マリの国旗カラーのブレスレットがマリで売ってたっていいじゃない、とは思います。でもまぁ、売れないとなれば仕方ない。友達の仕事の行き詰まり解消にすこしは役立てたようなので、まぁよしとします。



ある人がたまたま撮ってくれた、ファトゥマタとわたし。ママの猛烈なお仕事ぶりをずっと背中から見つめているこの赤ちゃんが、将来どんな敏腕商人になるか見もの&恐怖です。

2009年9月25日金曜日

マリの野菜を食らふ。

ここ数日、「乾季のぶり返し」みたいに暑い日が続いています。40度近い高温とクラクラする強烈な太陽に、乾季にはない湿気も加わっているので、町の皆さんぐったり。わたしもぐったり。

さて、今日はちょっと野菜の話でも。

マリの料理には、たくさんの野菜が使われます。生野菜のサラダは、女性による野菜作りが普及したここ10年くらいで徐々に食べられるようになったと言います。それまでは、マリに葉っぱものを生で食べる習慣はほとんどなかったのだとか。今ではジェンネでも、多くの女性が町はずれに自分のミニ野菜畑をもっています。畑は増水期には水没するので、ジェンネでサラダを食べられるのは、畑が水没しない4月~8月くらです。

こちらのオーソドックスなサラダは、たっぷりレタスにゆでたビート(赤くて甘いサトウダイコン)やじゃがいも、たまにゆで玉子も入っています。ドレッシングは、あまり酸味の強くない酢と油、調味料をあわせたシンプルなもの。大きな器――大家さんちでは、普段は赤ちゃんの水浴びに使われているたらいを使用――で大量に和えて、皆でバケツを囲んでむしゃむしゃ食べます。とてもおいしいです。赤ちゃんがそのバケツを見て、「今からボクは水浴びをするのかな?」と勘違いして、ハイハイ近づいてきたことがあります。

マリのサラダ歴は浅いので、年配の人のなかには、「生野菜なんぞ動物が食らふもの」という認識も根強いようです。マリではやはり、野菜といえば煮込むもの。煮込んだり、杵でペースト状になるまで搗いてからソースに入れるので、ぱっと見たところ野菜が見当たらないことが多い。でも、ちゃんとはいっています。

よくソースに使われるのは、たまねぎ、トマト、オクラ。特にたまねぎとトマトは、必ずといっていいほど使われます。トマトが好物のわたしにはラッキーな食環境です。これらは原型をとどめぬまで煮込まれて、ソースのベースになっています。そのほかにも、バオバブの葉っぱや、こちらでファク(faku, 学名Corchorus tridens)という草をベースにした緑のソースもあります。ソースには、干し魚や何種類もの香辛料が入れられます。これをごはんやクスクスなどにかけて食べます。

原型をとどめたままソースに入っている野菜は、キャベツ、キャッサバ、にんじん、さつまいも、なす、かぼちゃ、などなど。キャッサバは、煮ると大根とおイモの中間みたいな食感になり、くせがないので何にでも合う便利なお野菜です。

こうした日本でも見慣れた野菜にまぎれて、マリに来てはじめて見たものが。マリで「ンゴヨ」と呼ばれているもので、学名はSolanum aethiopicumというそうです。マリやセネガルの料理でよく見かけます。そのまままるごと煮込みます。見た目はこんなの。大きさはこどもの握りこぶしくらい。ぺかぺかぷりぷりしていて、とてもかわいい。↓


このンゴヨ、ネットで調べたところ、「Ethiopian Eggplant(エチオピア・ナス)」とか「Mock Tomato(ニセ・トマト)」とかいうそうな(http://en.wikipedia.org/wiki/Solanum_aethiopicum)。アジアの熱帯にも見られると書いてあります。わたしが持っている辞書では、英語で「トマトとナスに似た野菜」、フランス語で「この地方のナス」とも説明されています。食感も味も、この呼び名の混迷っぷりがあらわす通り、トマトともナスとも言えるものです。食感は、トマトほどぶじゅっとはしておらず(種はトマトっぽい)、ナスほどのしゃくっとした歯ごたえはなし。これらの中間よりちょっとナス寄り。味は、トマトほどのさわやかな酸味はなく、ナスほどしっぽり大人の味ではなし。これらの中間よりちょっとナス寄り。

ナスの苦味を粗野にしたような苦味があるので、お子チャマはあまり好みません。オトナなわたしはこの両者のいいとこどりな絶妙な味が好きなので、誰も手をつけないのをいいことに、遠慮なく食べています。

唐突ですが、わたしの母は野菜が大好きです。仕事では野菜を売り、野菜と果物の勉強にルンルンと取り組み、家のベランダでこぢんまり野菜を育て、ひたすら野菜を食べています。こってりしたお肉は苦手で、ごくたまぁに「血になるものを摂らなきゃ…」と、しぶしぶ無表情で食べています。小柄で細身なからだで、うれしそうにむしゃむしゃと野菜ばかり食んでいる母が、たまにちっちゃな新種の草食動物に見えるほどです。

以前そんな母から、「トマトはナス科の野菜」と教えられ、おどろいたことがありました。ンゴヨは、まさにそれを証明するかのようなお野菜。(トマトはナス科って、知らなかったの私だけかな。)ンゴヨを日本に持って帰って草食動物な母に見せてあげたいけど、生野菜や植物の種って、たしか国を超えて持ち出し・持ち込みはできないんですよね。残念。

ちなみに、キャッサバもンゴヨも、生でも食べらます。生でぽりぽり食べるキャッサバは、瑞々しくてほのかな甘さがあっておいしいです。生のンゴヨも、煮たときよりも苦味が抑えられてさわやかで、ナスとトマトの「ナス寄り」が、こころもち「トマト寄り」に変化します。マリの人の中にも生でンゴヨを食べられない人がいるようで、外国人のわたしがンゴヨを食べていると、「それをよく生で食べられるわねぇ…」と言われたりします。いやいや、おいしいっす。

野菜のこの「ほのかな甘み」というのが、わたしにはたまらんのです。最近やたらと糖度の高さを自慢する果物や野菜の品種・栽培法が開発されて、たいそうなお値段で売られていますが、あれは邪道だと思います。噛んで噛んで、煮込んで煮込んで、苦味や酸味のなかに、ふぅっとほのかに甘みが感ぜられる。わたしはこれくらいが好きです。

というわけで、ンゴヨを試してみたい方は、ぜひ西アフリカにおいでください。それは無理、とおっしゃる方は、軽く火を通したナスを口に入れて、しばし噛んで口に残したままトマトを投入、というお行儀の悪い食べ方をしたら、なんとなくンゴヨを理解していただけるかと思います。

2009年9月22日火曜日

Open your mouth!―ジェンネの月の名づけ―

9月21日、ラマダーンの月があけました。

ジェンネではラマダーンの月の最終日(9月20日)、男性たちが町はずれの広場に集まって集団礼拝をおこないます。数千の人がメッカの方向を向いて、いっせいに地に伏して礼拝する姿は、なんとも厳かで圧巻です。今年は前日に大雨が降ったので、場所をモスクに変更しておこなわれました。女性も盛装してこの日を迎えます。家族や友人でおなかいっぱい食べて、おしゃれして親戚や友だちの家に挨拶してまわって、子どもたちはハロウィンのように、大人をつかまえて「おめでとうございまぁす!おめでとうございまぁす!」と騒いでお年玉(ちょっとした小銭や飴玉)をせしめて。楽しい祝日です。

ジェンネで、断食やその月を「ハウ・メ(attach mouth)」ということは、以前ここで書きました。そして22日から始まった翌月の名前は、「フェール・メ(open mouth)」。断食のために閉じてた口を、ぱかっと開く月!なんて素敵なネーミング。

これらにかぎらず、ジェンネ語の月の呼び方に、わたくし常々、萌えているのであります。月の名前に胸をときめかせるなんて、理解していただきづらいかもしれませんが、まあいいじゃない。趣味趣向とはそういうものなり。

ジェンネの月の名前(太陰暦)

一の月  デデウ
二の月  デデウ・カイナ
三の月  アルムドゥ 
四の月  アルムドゥ・カイナ 
五の月  アルムドゥ・カイナ・ヒンカンテ 
六の月  アコダージョ
七の月  アラジャウ
八の月  チェー・コノ
九の月  ハ・ウメ 
十の月  フェール・メ 
十一の月 ヒナン・ジャ 
十二の月 チウシ 

ジェンネ語の月の呼び方には、アラビア語起源のものと、そうでないものがみられます。

一の月「デデウ」については、その意味や語源を何人にも尋ねたのですが、よく分からないとのこと。誰か教えてください。二の月「デデウ・カイナ」の「カイナ」はジェンネ語で「小さい」とか「次~」「副~」といった意味なので、つまりは「デデウの翌月」。二の月は一の月の「ついで」っぽくて、ちょっとかわいそうです。「デデウ?デデウ・カイナ」という、浪速の商人っぽい響きが軽妙な一と二の月。

三の月「アルムドゥ」はアラビア語起源です。預言者ムハンマドの誕生日(almudu)の月、という意味。あら、素直なネーミング。そして四の月「アルムドゥ・カイナ」は、「預言者の誕生月の翌月」。やはりおまけ扱いです。さらにかわいそうなのは五の月「アルムドゥ・カイナ・ヒンカンテ」で、「預言者の誕生月の翌月のその翌月」という意味。サブのさらにサブという控えめな位置づけがされている五の月「アルムドゥ・カイナ・ヒンカンテ」に幸あれ。

六の月「アコダージョ」。これも意味や語源を探ってみたのですが、まだ分かっていません。それにしてもアコダージョ…なんかイタリア語っぽい響きですね。音楽の速度標語「アダージョ(緩やかに)」の弟分みたい。そして七の月「アラジャウ」はアラビア語起源のことばです。

八の月「チェー・コノ」はジェンネ語で「足が暑い」という意味です。たしかに陰暦の八の月ごろ、ジェンネは乾季も佳境に入り、連日40度超えは当たり前。乾季にはだしで道を歩こうものならやけどします(比喩ではなく本当に)。そんな頃にこの月の名前。もしくは、「足」には「おしまい」のような意味もあると考えて、「暑さも佳境」という意味なのかもしれません。いずれにしても、暑さにたいするなんと素直な実感がこめられた月の名前でしょう。

九の月「ハウ・メ」は、うえで述べたとおり。「口をくっつける」という意味の断食月です。つづく十の月は、「わたしたち、断食がんばったよね!」という皆さんの安堵感と達成感がうかがえる、「フェール・メ」(口を開けるの月)。

十一の月「ヒナンジャ」は、ジェンネ語で「お休み」という意味です。宗教の世界で「安息日」というのはありますが、「安息月」にも宗教的な意味があるのでしょうか。ジェンネの「お休みの月」である十一の月は、農業は稲刈り直前、漁業は繁忙期、牧畜業は放牧の旅を終えて大移動――と、むしろ皆さん忙しい時期にあたります。休んでいる暇はありません。

そして十二の月「チウシ」。これはアラビア語起源のことばで、雄羊を意味します。太陰暦の最後に、他のイスラーム圏ではaid al adhaなど、マリでは「タバスキtabaski」と呼ばれる、羊の犠牲祭があります。各家庭で気前よく雄羊を一頭ほふって盛大にお祝い。羊にとっては恐怖の月だと思いますが、わたしたち人間には、日本でいう大晦日~元日のような厳かかつうきうきわくわくなお祭りです。雄羊をほふるから、最後の月は「雄羊月」。なんだか星座のおひつじ座みたい。あ、おひつじ座もたしか12月の星座ですね

――どうですかね。八、九、十の月あたりなんて、特にそそられませんか。あと、「・・の次」としか言われない二、四、五の月が、ちょっと切なくありませんか。十二の月のなかでどれが一番かを選べといわれても難しいですが、あえて選ぶなら「アルムドゥ・カイナ・ヒンカンテ」かな。もっともないがしろにされている感じなのに、響きは端正に硬質で、声にだして読むと心地よい。

分かっていただけましたかしら、ジェンネ語の月の名に萌えるわたしの気持ち。

分かるかなぁ~分かんねぇだろうなぁ~ by 松鶴家千とせ。
(分からないヤングはこちらをご覧ください。↓
http://www.youtube.com/watch?v=Olnu4wUlRL8 )



ジェンネの月、長屋の屋上から。月ってなんでいつも、写真に撮るとこんなにちっちゃくなってしまうんだろう。目で見やるとあんなに大きいのにね。

2009年9月18日金曜日

日本の首相はアナボーリ?

ここ数日、テープに録音したインタビューを逐語訳して書き留める、という作業をしていて、おもしろいけど実に時間がかかってつらい。耳と肩と頭が疲れる。質問や相槌をうつ自分の声もはいっているので、さらにまいってしまう。なんて低くて美しくない声!そんなときにはこの歌を思い出して頑張るのです。クラムボンの「charm point」。(アルバム『id』に入っています。youtubeにはなかった。ぜひ買って聴いてみてください。) 

さてさて、先日、日本の首相が変わったそうで。

マリの国営テレビでも、ほんのちょろっとですが、日本の新しい首相誕生のニュースが伝えられました。ちょうど知り合いの家の前を歩いていたときで、「ミク、ミク、日本のニュースみたいだよ!」と呼びとめられたので、一緒に見ました。

いやぁそれにしても、外国にちょっといた方ならなんとなく分かっていただけるかと思いますが、異国で見る日本の映像というのは、なぜこうも異質な感じに映るのでしょうか。あと、外国の博物館の日本展示コーナーも。それに、おそろいのスカーフや帽子を身に着けた日本人団体旅行客も。日本であれだけ見慣れているものなのに、こうして見るとすごい「異国」感。エキゾチック・ジャパン。

一緒にニュースを見ていた人が、いろいろ質問してきます。「日本の大統領は誰?」「日本には大統領はいなくて、首相が国のトップです」「えぇ!?大統領がいないなんて!」「この人の名前は?」「鳩山」「…アトゥヤマ?」「non,non, ハ・ト・ヤ・マ」「ミクもこのアトゥヤマ(言えてない)に投票したの?」「日本では国家元首を直接投票で選ばないの」――といった、ありがちなやりとりが続きます。

そのなかにいたある子どもが、鳩山さんを凝視しながら、ぼそっとつぶやきます。「…ア ナボーリ。」すると大人の皆さんも、『小僧、よくぞ言ってくれた!』という感じで、「うむ確かに、アナボーリ」「う~ん残念、アナボーリ」などと口々に同意します。

「アナボーリ」とは、ジェンネ語で「彼は美しくない」ということ。まぁひどい!…うーん、まぁねぇ?政治家は顔の美しさで勝負しているわけではないから、遠く離れたマリの地でそんなこと言われたって、彼もかわいそうだ。反論するとすればそうだな、味のある独特の魅力的お顔と言えなくもないではないか!

実は日本の首相がここでアナボーリと評価されたのは、これが初めてではありません。わたしが前回ジェンネにいた2007年にも、小泉から福田首相への交代がありました。マリでもすこし報道されたようです。わたしはその映像が流れたことを知らなかったのですが、あとで色んな人から、「日本の新しい首相をニュースで見たよ」と声をかけられました。そして皆さん、「…それにしても、アナボーリだねぇ」などと同情するように付け加えてきます。ここでは政治家は俳優みたいな顔でないといけないのか?マリの大統領も、べつに美しいお顔じゃないじゃん…などと思いながら苦笑い。

はっ…!でも、ジェンネの市長さんはたしかに男前です。前市長も、今年新しく就任した市長も、「ちょっとジェンネの皆さん、あなたたち、顔で選んだでしょ?」とつっこみたくなるほどです。まじめそうな政治家の顔というよりも、色男の顔。前市長さんはたれ目の甘いマスクで女性にもてそうな顔だったし(実際もてていた)、現市長さんは細身長身でいつも斜めにタバコをくゆらせ、どこかチョイワルの男前です。どちらもタイプは違えど、たしかに「ボーリ」だわ。

それにしても、帰国するたびに首相が変わっているとは、あわただしいものです。でも、それより何より?わたしがショックだったのは、2004年にマリから帰ってきたとき。わが故郷の福岡ダイエーホークスが、いつの間にか福岡ソフトバンク・ホークスに変わっていました。知らなかった…。ホークスの応援歌をくちづさむとき、いまだに「われらぁ~の われらの~ぉ ダイエーホークス~ぅ」と歌ってしまう私なのであります。年配の方たちが以前、ホークスと言えば南海ホークスで、ダイエーホークスと呼ぶには違和感がある、と言っていた気持が分かります。

日本に帰ったら、「鳩山首相」という響きに慣れるのにも、しばらく時間がかかるんだろうな。とにかく新首相、アナボーリかボーリかどうかは関係ありません。がんばってください。このままだと、日本はとっても生きにくい国で、20年後に外国に逃亡している自分が見えてしまいます。

さてちなみに、ジェンネの人たちにとっての「ボーリ」な政治家は、オバマさんだそうです。そりゃ、アフリカでも絶大な人気のオバマ大統領を基準にされたら、日本の首相も形無しってもんよ。

2009年9月15日火曜日

マラリア予防薬。

マリはただいま雨季です。雨季といえば蚊の季節。蚊の季節といえばマラリアの季節。

マラリア:マラリア原虫による伝染病。熱帯、亜熱帯に多く、温帯でもまれに見られる(日本では40年ほど前からみられなくなった)。原虫の種類によって、三日熱マラリア・四日熱マラリア・卵形マラリア・熱帯マラリアなどと呼ばれる。ハマダラカが媒介する。40度を越える高熱、はげしい悪寒、貧血状態、吐き気などが症状。熱帯熱マラリアでは脳梗塞が起こる場合も。

今日は、そんなマラリアの予防薬とそれにまつわるあれこれについて書こうと思います。マラリアが広がるほかの地域には当てはまらない点もあるかもしれませんが、西アフリカに来る予定の方には、ちょっとはお役に立てるかな。そんな人がこのブログを読んではいない気もするけど。

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マラリアの予防薬・特効薬は、時代とともに変化しています。(たぶん)最初に「これはマラリアに効く!」と言われていた成分はキニーネ。戦時中、衛生兵としてタイの戦地にいた祖父からも、マラリアにかかった村人や兵隊さんにキニーネを投与した話を聞いたことがあります。小さい頃おじいちゃんから聞くマラリアは、「南のほうの異国の病気」、「兵隊さんの病気」だと思っていました。まさか自分がかかわろうとはね。

その後、マラリアに有効な成分として、クロロキン、メフロキン、プリマキンなどが登場しました。なかでもマラリアの「特効薬」として長いことちやほやされてきたのが、クロロキンです。これは視覚障害の副作用が問題になったため、日本では1975年から販売中止になっています。でもマリでは――おそらくたいていの他の国でも――クロロキンは販売されています。10錠100CFA(約20円)。マリでもとてもポピュラーな予防薬です。

よく用いられてはいるものの、マリではクロロキンはすでに一昔前の存在と認識されています。クロロキンに耐性があるマラリア原虫がでてきて、飲んでも予防・治療できない場合が多くなっているそうです。クロロキンは安いし田舎でも手に入るので手軽ですが、万全ではない。もちろん、たいていのマラリアにたいする一定の効果はあります。

そして今日、マラリア予防薬で効果的といわれているものはなにかしらん。――わたしはお薬にかんして、「頭痛にはバファリン、下痢には正露丸、かゆみにはムヒ、失恋には時間と新しい恋」ということをかろうじて知っているだけの、完全な文系人間です。なのでここでは、わたしが服用したことのある2つの抗マラリア薬について書きます。ほかにもたくさんの有効といわれる成分や異なる配合があるかと思いますが、それらについてはよく知りません。

〇予防薬として服用したもの
Fansidar(商品名):Sulfadoxine (500mg) の錠剤。1プレート3錠300CFA(約60円)。

「今いちばんヒップでホットなマラリア予防薬をおくれ」と首都バマコの薬剤師さんに相談したら、これを勧められました。業務用みたいな大箱に入っているので、箱ではなくプレート単位で購入します。薬剤師のおじさんに用量を尋ねると、ふむふむと説明書を読みながら、「マラリアにかかった場合はまとめて4錠。予防としてなら、毎食後1錠ずつを一週間続ける。それでワンシーズンは大丈夫!」と教えてくれました。



とても素直なわたしは、せっせと毎食後に飲みましたとも。薬を飲み忘れことがよくあるので、「チェック表」まで作って、順調に飲み続けました。そして4日目の午後…なんか吐き気がする。調査でインタビューの約束があったので出かけるも、インタビュー中もその気持ち悪さは高まっていく。なみだ目でえずきを堪え、どうにかインタビュー終了。とてもいやぁな予感をかかえて、這うようにネットカフェへ向かいました。「この吐き気、これ以外に思い当たる原因はないわ」と、おそるおそるお薬検索サイトdrugpedia(http://drugdpedia.net/)とやらで確認すると――

「用量:発症したら一度に2,3錠。予防には1錠/1週間もしくは2錠/2週間度」って書いてあるやん。そして「過剰摂取」の欄には、しっかり「吐き気」って書いてあるやん。――わたし、マラリア発症してないのに、週に1錠だけでいいものを、4日で計11錠飲みましたけどー?薬剤師のおっさんのどあほ!おかげですっごく気持悪いじゃないか!

あぶないあぶない。あのまま我慢して摂り続けなくてよかったです。過剰摂取時のその他の症状には、「食欲減退、痙攣を含む副作用の症状、誇大妄想、白血病、血栓症、glossitis、crystalluria」とあります。最後のふたつはわたしの英和辞書に載ってすらいない。なにがキラキラglossして、なにが結晶crystallになってしまうのかしら。あなおそろしや。誇大妄想とかに陥らなくてよかったです。謙虚につつましく生きたい人間ですもの。

それにしても薬剤師さん、説明書読みながら教えてくれたのに…あれ、それらしく読んだふりだったのか?それなら資格剥奪!もし薬剤師じゃないなら、白衣なんて着ないでくださいな、まぎらわしい。首都にたくさんある薬局のなかでも、お金持ち地区にあるちゃんとした感じのところに行ったんだけどな…。

というわけで、4日目以降は飲むのをやめました。でもその後しばらく吐き気はつづいたし、手足がむくんだ感じでした。皆さん、【一週間に1錠】です。お間違えなく。こんなすったもんだを書きましたが、もちろん正しく摂取すれば、抗マラリア効果は高いと思います。上述サイトによると、クロロキンでは対応できないマラリア原虫にも有効らしいです。

薬剤師さん(もしくは白衣を着たただの店員さん)を信用しすぎてはいけません。これはわたしも反省。次回からは、説明書を力ずくで奪ってでも、自分で読んで確認するようにいたします。

また、マリでは露店の薬売りさんもよく見かけますが、かれらは薬剤師の資格をもっていません。また、こうした露店で売られているお薬には、たいてい説明書がついていませんし、服用量の案内も書いていません。露店が悪いと言っているわけではないけど、露店のお薬は、ちょっとあやしい。数ヶ月前、政府当局がこの手のあやしいお薬をダンボールごと原っぱでめらめらと焼いて、業者と消費者に「売るな、買うな」のみせしめパフォーマンスをしていたくらいです。ご注意を。

〇かかってしまったときの薬
Coartem(商品名)。主な成分はArtemisinとLumefantrine。24錠入りで5,000CFA(約1,000円)前後(正確な値段は失念)。

予防薬は飲んでいる、でもマラリアにかかってしまった!という場合もなきにしもあらずです。わたしは前回の滞在でおばかにもそれをしでかし、大変な目に遭いました。胃が荒れてしんどかったので予防薬を飲むのをちょっと休んだら、その隙にマラリア原虫がインベード。35度の気温のなかで何枚も毛布をかぶってもガタガタと悪寒が止まらないし、40度の熱が続く。こわかった~。

発症したらなによりまず、ちゃんとした病院へ行くべきです。でも、「車で4時間圏内に病院がない」とか「いやそもそも、交通手段は馬かロバしかない」とか、「病院に行ったけど、ラマダーン中だからお医者さんが早めに帰っちゃってた」という場合には、自分でお薬を飲んだほうがいいと思います。これらはどれも、マリ(の田舎)では普通にあり得る/遭遇したのことのある状況です。

このCoartem、症状がでたらまず4錠、8時間おいてさらに4錠、それ以降は朝晩4錠ずつ2日間、という摂取スケジュールです。わたしの場合にはよく効きました。副作用が少ないらしい(説明書によればね)というのも、臆病なわたしには高ポイントです。発症後3日間で計24錠飲みきりましたが、無理にでもなにか食べてから薬を飲めば、胃は荒れませんでした。

というわけで、今後マリにいらっしゃる予定の皆さまに、これらのお薬情報が少しは役立てばさいわいです。――くどいようですが、わたしはお薬どころか、人生のたいていのことに関してど素人なので、ぜひ、ほかの情報と併せてご参考ください。

***

ジェンネでは、赤ちゃんがよくマラリアで亡くなります。でも、抵抗力の弱い赤ちゃんだけがあぶないのではありません。「これまで何度もマラリアにかかったことがあるけど、毎回たいしたことなく治ってきた」という元気そのものの若者でも、場合によっては亡くなってしまいます。

前回のジェンネ滞在のとき、近所に住む同い年の男性がマラリアで亡くなりました。発症して4日。あっという間。病院にお見舞いに行ったときに見た、げっそりやせて震えながらうー、うー、と廃人のようにうめいていたその姿は、正直、近づくのを躊躇するくらいこわかったです。とても悲しくてショックでした。いくらここではよくある病気でも、あなどっちゃだめなんだな、とつくづく思いました。

ちなみに、マラリアになると肝臓と脾臓がはれるそうです。わたしは発症する前日、すごく腹筋が痛かった。激しい運動なんてしてないのに、なんでだろな?と思いながら、痛みをかばって前かがみによたよた歩いていました。その夜は横になるのもつらいくほどの痛み。そして翌朝、一気に高熱しました。あとから思えば、あれは筋肉痛であるはずもなく、肝臓と脾臓の腫れのせいでした。筋肉痛だなんて思ったわたしのおばか。ということで、「覚えのない腹筋肉痛」は、発症直前のシグナルのひとつかもしれません。こちらもご参考まで。

2009年9月12日土曜日

こういうもんではなかろうか。

水曜日、長屋のお隣に住むおじさんが亡くなりました。下の子どもはまだ小学生。マリの男性の平均寿命が 48歳とはいえ、これはあくまで平均で、70、80まで元気なひともめずらしくないので、早すぎる気がします。早朝、奥さんが泣き叫ぶ声で目がさめて、あぁ、亡くなったんだな、とわかりました。今回の滞在で同じ長屋のひとが亡くなるのは二度目なので、さすがに気が沈みます。

前回2007年にジェンネにいたときからのお隣さんです。気の強い奥さんとは対照的に、もの静かな旦那さん。首都でおこなわれる競馬が好きで、よく鉛筆片手にチラシとにらめっこしていました。でも、つつましい生活なので、賭けることはめったになかったそう。雑音まじりのラジオでその結果を聞いて、地味に楽しんでいました。奥さんと子どもが喧嘩していると、どちらを責めるわけでもなく、どちらの言い分も、うんうん、と聞いてあげていたお父さん。年齢をたずねたことはないけど、まだ40代半ばくらいだと思います。

今年3月にジェンネにやってきたときに、「あれ?おじちゃん、ずいぶん老けたなぁ…」と思いました。前から1年しか経ってないに、10歳ちかく老けた印象。6月にはいってから畑仕事にでることも少しずつ減り、中庭にござを敷いてじっと座っていることが多くなりました。おじちゃんのあとにトイレに行くと、なんだかいやぁなにおいがしました。ご飯を食べるのも歩くのも、どこかつらそう。それでも毎日の礼拝はかかさずに、生まれたばかりの孫娘をお祈り用のござの隅っこにちょこんと座らせ、中庭でお祈りしていました。また、やんちゃざかりの息子たちを、杖でつんつん小突いて遊んであげたりもしていました。

ラマダーンの月にはいった2週間前から、部屋のなかで完全に寝込んでしまいました。病名は分からないけど、おじちゃんのその様子から、もうだめなのかな…という不安がありました。――そして、ひとがおうちで死を迎えるというのは、こういうことなんだな、と思いました。

もう起き上がることすらできないおじちゃんが寝込むその部屋の前で、子どもたちは近所の子とトランプ遊びをし、きゃっきゃとはしゃぐ。息子は側転ができるようになったと言って、自慢げにクルクル回ってみせる。孫娘がお母さんのひざの上でうんちをしてしでかしたと言って、皆がわぁわぁ騒ぐ。騒ぎすぎて、「お父さんが寝てるでしょ!」と奥さんが怒鳴る。近所のひとたちが毎朝、あいさつをしにくる。「お見舞い」という感じではなく、いつもの毎朝の挨拶と変わらない感じで、一声かけていく。奥さんと娘さんは、中庭でいつものようにトン、トン、と杵をつき、火をおこし、煮炊きをして、やわらかい部分をお父さんのために選り分ける。かまどの煙が、お父さんが横になる部屋にも、するすると入っていく。

たいていのジェンネの人は、こうしておうちで亡くなっていきます。入院するひとはごくわずか。おじちゃんはまだ若いので、もしかしたら、はやいうちに首都の大病院に入院していれば助かったのかもしれません。でもここの病院は正直、重病者が回復するまでケアできるようなレベルではありません。ちょっとした怪我の治療と内科の問診が精一杯。首都の大病院に行けば見込みはあるかもしれないけれど、ここでは病院ではまずは現金を示さないととりあってもらえず、保険も一部のお金持ちの人しか加入していないのです。入院という選択肢は、あまり大きくないのです。

わたしには、病院があったら助かったのに…という思いよりも、こうしておうちで亡くなっていくおじちゃんと、それを看取る家族を見て、「あぁ、こういうことなんだな…こういうもんなんだよな…」という思いがありました。

病院が悪いわけでも、病院に行けない状況がいいというわけでもない。なにかあったら、ただちに高度な医療のお世話になれる日本から来たわたしがこんなことを言うと、「持てる者の余裕」、安直な「田舎生活賛歌」に聞こえてしまうかもしれない。

それでも、日々の生活から隔絶されないまま、日々の生活の隅で、それを見届けながら、そのにおいをかぎながら、その音を聞きながら亡くなるというのは、人にとって当たり前のことなのではなかろうか、とつくづく思いました。ちょっと前まで見慣れなかった白衣や真っ白な壁と天井、慣れないベッド、遠慮してあまり訪ねて来ることのない親戚・近所の人・友人、聞こえてこない子どものはしゃぎ声、ただよってこない夕飯の支度のにおい。それはやっぱり、ひとの最後としては、ちょっとつまらないことなんじゃないかな、と思いました。

今回のことを見て、「マリにもっと病院を!健全な医療体制を!そのための支援を!」と思いおよばないわたしは、なにか欠落してるんだろうか。まぁそういうことにはそういうことの専門の人がおるんやから、向いてないことに気勢を上げるのはよそう。わたしは隅っこで悶々と、おじちゃんとその家族と、自分のふがいなさを思おう。

おじちゃんが亡くなった朝、たくさんの人が中庭に集まってきました。皆さん、中庭に敷かれたござに座り、その死を悼みます。一時間くらいして、近所の男性たちが、むしろにていねいに包まれたおじちゃんを部屋から運びだし、町はずれの墓地にむかいました。

ジェンネで亡くなった人は、かならずモスクの前を通って墓地に運ばれます。モスク前の広場で葬列は立ちどまり、お葬式のための無言の礼拝がおこなわれます。広場では男の子がサッカーをし、女性たちが立ち話をし、コーラン学校の生徒が木陰でコーランを読んでいます。葬列を見て、そこにいる皆は、この町の誰かが亡くなったんだと知り、ぴたっと立ちどまり、祈りを見つめます。

おじちゃんが運ばれていった後も、たくさんの人が家を訪ねてきました。男性の親族は、家のまえの路地にござを敷いて座っています。部屋の奥にひっこんで喪に服す奥さんを囲んで、親戚の女性や友人たちが、静かにおしゃべりをしています。

おじちゃんが運び出されていくとき、気丈な奥さんが必死で涙をこらえている姿や、「バーバ…、バーバ…(お父さん、お父さん)」とむせび泣く幼い息子のようすは、見ていてとてもつらかった。でも、派手な祭壇も、ビシっと着込んだ喪服も、仰々しい司会進行もなく、ただ悼むひとだけがそこに在るお葬式は、淡々と静かだったおじちゃんそのもののようでした。

あぁ、死ぬというのは、こういうもんではなかろうか、と思いました。

「これがいい」でも「こうでなくてはいけない」でも「これではいけない」でもなく、こういうもんではなかろうか、ということです。

ジェンネ語で「天国」は「ジェンネ」といいます。アラビア語起源のことばで、町の名前とおなじです。おじちゃんは、ジェンネの町から、あちらのジェンネへ召されたのでしょう。おじちゃん、からだ、だいぶしんどかったと思います。いまはどうぞ、天国で安らかに過ごしてください。

2009年9月9日水曜日

今日は昨日で、降りるは昇る。そして踊るは歌う、なのだ。

ひさびさに、ジェンネのことばのはなし。

ジェンネは、1km2 にも満たない町です。そこに、およそ1万4000の人が住んでいます。ちなみに、東京でいちばん人口密度が高い中野区で、およそ1万9000人/km2らしいです。中野区には及びませんが、人間ジャングル・都会砂漠トキオにひけをとらない、ジェンネの人口密度!

ジェンネには、そんな限られた土地に、たくさんの民族集団がぎゅうぎゅうつまって暮らしています。主なのはソンライとフルベという人たち。ほかにボゾ、バンバラ、ドゴン、モシ、ボボ、トゥアレグなどなど。

言語がちがうたくさんの民族がご近所さんどうしなので、コミュニケーションには共通の言語が必要です。その役割をはたしているのが、ジェンネ語(ソンライ語のジェンネ方言)。家庭内ではそれぞれの民族の言語が話されていたりしますが、言葉の違うエスニック同士の会話や、公の場(地区の集会とか、町全体の催しごとなど)で用いられるのは、ジェンネ語です。

またジェンネのひとは、複数の言語をやすやすと使いこなします。相手によって、使う言語をスイッチング。4,5歳のこどもですら、2つ3つのことばを相手によって使い分けたりします。大人になると、5つの言語を話せる人もめずらしくありません。(たとえば私のお隣さん。彼女自身はバンバラという民族のひとですが、バンバラ語のほかに、ジェンネ語、フルベ語、ボゾ語、そして少々のアラビア語を解します。大家さんは、これにさらに学校で習ったフランス語を加えた6つ。)

この言語能力、ほんとにすごいなぁ、と驚くばかり。でも、「すごいねぇ」と言うと、たいていジェンネっ子はきょとんとします。かれらにとっては、これが普通なのです。自分たちの「普通」をすごいとほめられても、あまりぴんとこないみたい。日本人が外国のひとに「Oh, 箸の使いかたがなんて上手なの!unbelievable!」とほめられても、「えぇ、まぁ、慣れてますから…」と答えるしかないような感じでしょうか。

ほめちぎるわたしに、「だって、違う言葉をしゃべる人が近所にいたら、どうやってお話するのよ?あなたもそういうところで育てば、3つだって4つだって違う言葉が話せるようになるもんよ」ですって。さらりと言ってくれるじゃないの。

さて、マリの公用語のフランス語でさえ外国語――マリの人にとっても、フランス語は植民地支配がもたらした外国語ですが――のわたし。こんなにローカルな言語があふれているジェンネでは、たまに困ってしまいます。

たとえばこういう場合とか。

ある人がわたしとジェンネ語でしゃべっていたとき、通りすがりの人がフルベ語で挨拶してきた。そこでその人はフルベ語で返事をし、しばし雑談。そして私とのお話に戻っても、さきほどまでのフルベ語につられて、フルベ語でおしゃべり再開。「あ、フルベ語わかんないです…」と指摘すると、「あぁ、ごめんごめん」と言ってバンバラ語で話し始める。「いや、さっきまでわたしとはジェンネ語で話してましたよ」とさらに指摘すると、「あ、そうだっけ?まぁ気にするな。君、バンバラ語も十分わかるんでしょ?」とくる。いやぁ、ジェンネ語だけでも、理解するのに必死ですってば。

それぞれの言語の響きは、だいぶ違うのです。たとえば、「わたしは家に帰ります(je vais à la maison.)」は、――カタカナで表現しづらいので不適当ですが、あえて書くと――バンバラ語では「ンベタソ」、ジェンネ語では「アイコイフゥ」、フルベ語では、「ミゥィチチューリ」。だから普通は、相手がなんの言語で話しているのか、その響きからパッと区別がつくのです。

でもいくつか、とっても紛らわしいことばが。ぼぅっとしていたり疲れているときにとっさに話しかけられると、「へ?どっちかね?」と混乱します。その代表格が、「ジギ」と「ビ」と「ドン」。

「ジギ」はバンバラ語で「降りる」、ジェンネ語では「昇る」の意味。同じ響きなのに、意味が真逆。「ビ」はバンバラ語で「今日」、ジェンネ語だと「昨日」。一日ずれてる。「ドン」はバンバラ語で「踊る」、ジェンネ語だと「歌う」。なんとなく近いけど違う。

ふたつの言語が一緒に使われないところにいれば、この意味のニアミスもなんてことないのでしょうが、バンバラ語もジェンネ語も、ジェンネではよく使われるから困ります。ジェンネを一歩出ると、たった5kmしか離れていない村でも、ジェンネ語が通じません。なので、よその町から来た人がその場にまざっている場合などには、バンバラ語で話したほうがスムーズに通じるのです。(ジェンネではバンバラは人口の5%と少数ですが、マリ全体では人口の4割以上を占めるマジョリティ。その言語バンバラ語も、マリ国民の7割が使えるそうです。)

というわけで、今日が昨日だったり、昇るが降りるだったり、バンバラ語で「ミク、踊りなよ(ミク、ドン!)」と踊りの輪に誘われて、「あ、では、せんえつながら…オホン」と、ミクは歌い(ミク、ドンinジェンネ語)始めてしまい、恥をかくこともあったり。いえね、踊りのBGMになるような歌を歌え、という意味だと思ったんですよ、ジェンネ語で。お祝い事だし、はずかしがって場を盛り下げてはいけないと思ったんですよ。

マルチリンガルっておもしろい。どこか気楽。まざっているのが当たり前、違うのは当然――そんな感覚のなかにいると、皆さんあんまり、「違う」ということにくさくさしない。違うから悪いとか、違うからすごいとかでなく、違うからこそ、それぞれのものを交換できる。言葉にかぎらず、いろいろと。

日本ももっといろいろ混ざればいいのに、と思います。日本というか、じぶんの生まれ育ったり住んでたところは好きだけど、でもやっぱり、もっと混ざったほうが深みがでるんじゃないか?と思います。韓国語、中国語、ポルトガル語、英語、あれこれ。他言語の話者が日本にもぎゅうぎゅう住んでいるのに、必死に耳を澄まさないと聞こえてこないなんて、妙な話です。「純粋なる国語」なんて、ありえないと思うんだけどなぁ。

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写真は、本文とはまったく関係ないのですが、ちょっと興味深かったので。近所の男の子たち。この年頃の男の子集団にカメラを向けると、なぜか「強いぞっ!」という感じの、カンフーもしくは〇〇レンジャーみたいなポーズをとるのは、万国共通なのだなぁ、と。

もちろんマリで「〇〇レンジャー」のシリーズは放送されていません。カンフー映画はそこそこポピュラーですが。特に、いちばん左の子の、「関根勉がするカマキリのものまね」みたいなポーズは、日本でもお調子者の男の子がよくやっていたなぁ、と小学生のころを思い出してしまいました。あ、しかもこの子、カマキリ色の服やね。

2009年9月5日土曜日

覗いちゃイヤン。

愚痴ります。(天津木村の「吟じます」ぽく。)

以前このブログで、「チュバブ(白人)」のわたしが珍しくて、ジェンネの見知らぬ子どもたちが悪さをしてくることを書きました。身体的なことをからかってきたり、私のジェンネ語(もちろん完璧でなく訛っている)の口調をまねておちょくってきたり。まぁここまでは、悪ガキが調子にのっている、という感じです。

でも、それだけでは済まないのが困る。無視すれば、それが気にくわないのか、棒で叩いてきたり、石や靴を投げつけてきたり。これはけっこう恐怖だし、ひどい屈辱なのです。しかもちゃんと、まわりに大人がいないときにそういうことをしてくる狡猾さ。キ~ッ!

今でも相変わらず、毎日同じような目に遭います。追いかけて運よく捕まえられれば、バシバシお尻を叩いておおいに叱ることも、腕をつかんで長々と説教をすることもありますが、効果なし&きりがなし。慣れるのは難しいですが、毎回それに反応していては精神的にもたない。それに、そういうことをするのは一部の(にしては多いので困る)子どもだけなので、しょうもないガキはなるべくスルーしよう、てきとうに丸め込もう、と決めて、どうにかこうにか心の均衡を保ってきました。

でも昨日、その必死で保ってきた均衡をやぶる出来事が。

見知らぬ子どもたちに、はだかを覗き見されたんです!あぁもう、本当にイヤ。とってもイヤぁな気分なのよ、わたし。

わたしの長屋のトイレ兼水浴び場は、建物の2階にあります。囲いはあるけど、屋根はありません。これはジェンネでは珍しい造りではありません。そしてすぐ隣の建物は、うちより高い三階建て(もちろん三階でも泥づくりの家)。路地を挟んでいますが、そこの屋上のへりに立てば、わたしんちの水浴び場が見えてしまいます。でももちろん覗き見をする人などいなくて、隣の建物の住民は、たとえ屋上に用事があっても、うちの水浴び場が見えてしまうポイントには近寄りません。暗黙の了解です。

さて、自慢じゃぁありませんが、ジェンネでわたしは有名人。ジェンネに住んでいるチュバブ("白人")はわたし1人なので、とてもめずらしいのです。わたしが住んでいる家も、だいぶ知られています。言うなれば、わたしがすき好んで彼らの町に勝手におじゃましているわけなので、まぁ、これ自体は特に気にしはしません。

(でも、わたしの家を知っている見知らぬ大人がお金を無心しにやって来たり、見知らぬ男の人が夜中に口説きに来たり――あちらは私をどこかで見知ったうえでの好意だろうけど、こちらからすれば、夜中に見ず知らずの男性がドアをノックしてくるのはかなり恐怖――、子どもたちが私がごはんを食べる様子をのぞきに来たりするのは、けっこうなストレスでもあります。)

さてそんなわけで、家が知られているうえに、水浴び場が隣から覗き見れるので、悪ガキたちのあいだで「チュバブの裸を見てみようぜ!」という話になったのだと思います。隣の家はいつも人が出払っていて、比較的ひとが少ない。その隣の建物の屋上に、こっそりのぼったようなのです。

まさか覗かれているとはつゆ知らず、いつものようにバケツの水でからだを洗うわたし。当然、なにも身に着けてない姿です。石けんの泡を流しているときに、なーんかひそひそ声が聞こえるなぁ…と上を見たら、隣の屋上に人が!10歳くらいの男の子たちが、こちらを指差して笑っているのです。しかも7人も。

とっさに「そこで何してんの!?あっち行きなさい!」と怒鳴ると、「ハハハ!チュバブが裸だぁ!裸で怒ってらぁ!」としばらく笑い、走って逃げていきました。こちらはあわてて手に取ったタオルで体を隠しているだけ。今から服を身に着けて下へ降り、ぐるっと家をまわって隣の家まで行っても、彼らはすでに逃げているので無意味です。

隣の家の子どもたちやその連れではない見知らぬ顔ばかりだったので、あきらかに覗きをするためだけに来ていたのです。この水浴び場は長屋の共同なので、他のひとも同じところで水浴びをするのに、なぜ私の時だけいたのかしら?――あぁそういえば、今日はすこし前から、同じ顔ぶれの子どもたちが何度も何度も路地からうちの長屋の中庭をのぞきこんでいて、お隣さんに追い払われていたっけ。いつものごとくチュバブを見に来ただけの子どもにしてはくどいなぁ、と思いつつ無視していたけど、まさか、わたしが水浴びに行くタイミングを確認していただなんて。最低だわ、そのずるがしこさ。

わたしもそろそろ三十路です。自分の子どもといってもおかしくない年齢の男の子に裸を見られても、正直あまり恥ずかしくはありません。でも、「家族以外の女性の裸を見る」=とってもよくないこと、見られる女性は嫌がるであろうことを分かったうえで――なにせかれらは、幼くともムスリム、しかも今は特に神聖な月・ラマダーン――、そんなことをしてきた子どもたちのレベルの低さに、ほんとうに腹が立ちました。しかも、あっちに行けと怒った時、ばつが悪そうに逃げるのではなく、わたしがすぐに追いかけられないことを知って、怒るわたしのその姿をしばし笑ってから去っていくなんて。卑怯このうえなしやん!は、ら、た、つ、わぁ~。

その後、隣の家に行って、屋上に子どもが上っていくのを見なかったか聞いてみたり、彼らが逃げていった道にいた人に、走って逃げていった子どもの名前を知っているか、など聞いてまわりました。わたしの話しを聞いて、一緒に憤ってくれる人もいました。でも、残念ながら手がかりはなし。

「チュバブにたいする好奇心」ではすまされないことだよなぁ、と思います。あの子たちがあのあと、チュバブはこんなふうに体を洗っていたとか、チュバブの裸はこうだったとか、タオル一丁の間抜けな姿で怒ってきたとか、そんなことを笑いながらほかの悪ガキ仲間にふれまわっていると思うと、ますますやるせなくなってしまうわけです。

…嗚呼、ほんとうにイヤな出来事でした。昨日はせっかく、調査がうまくいって、とっても充実した気分だったのに。

もちろんジェンネには楽しいこともいっぱいありますよ。みんなで雹(ひょう)を食べたりとかね。↓そんなことも、もちろんたくさん書いちゃいますよ。わたし、おしゃべりやもん。

あ、ちょっとスッキリ。

2009年9月3日木曜日

アッラーの氷。

火曜日の宵の口、激しい砂嵐のあと、雷雨がきました。もっか雨季なので、これはごく普通の出来事。わたしは、外から大慌てで家に帰ってくる子どもたちのはしゃぎ声を聞きながら、お部屋で本を読んでおりました。雨で気温が一気に下がり、とても快適です。

しばらくすると、お隣の娘さんが「ギャー!ギャー!」とわめきはじめました。このお嬢さん(18歳くらい)、極度のショック――知り合いが亡くなったり、自分のベイビーが石鹸を口にして吐いてしまったり――を受けると、動物がとり憑いたようにわめき暴れ、過呼吸気味になってしまいには失神する、という、たいへんセンシティヴなところのある子です。普段のとても理知的&かなり美人の彼女からは想像できないその姿に、最初こそおったまげたものですが、何度かその介抱をしているうち、ようよう慣れてきたところでした。(まぁそれでもあの姿を見ると、毎回心臓がバクバクしますが。)

わめき声を聞いて、「すわ、今回はなんだ!?」と外に飛び出たところ、なんと彼女が、大粒の雨がふる中庭を笑顔で走りまわっているではないか!「まあ、彼女にはこんな陽気な発狂パターンもあったんやね…」と呆然としていると、彼女が「ミク、あなたもおいで!」と私を誘ってきます。その様子は、興奮気味ではあるものの、いつもの感じ。どうやら今回は発狂しているのではなく、なにかに大喜びしていただけのようです。あぁひと安心。すると、長屋のほかの皆さんも続々と、おおはしゃぎで中庭に飛び出してきました。

「ミク!アッラーの氷よぉぉ!」と叫びながら、彼女が地面から拾った氷の粒を渡してくれました。わぁっ、雹(ひょう)だ!大粒の雨に混じって、ぬかるんだ地面に、ぼとぼとと雹が落ちてきているのでした。べつのお隣さんも、落ちてきた雹を拾いながら、「拾いな!食べな!」と笑顔ですすめてきます。砂まみれだったけど、雨ですこし洗ってそのままぱくっ。あぁおいしい。

耳を澄ませると、激しい雷雨の音に混じって、町のほうぼうから歓喜と興奮の声が聞こえてきます。どうやら町じゅうの皆さんが、雹を拾って食べている様子。わたしも一気にテンションが上がって、大雨の中庭に飛び出しました。

どっ、どっ、と音をたててそこここに落ちてくる雹を拾っては口にほおり、拾っては口にほおり。けっこうな大きさ(大きいもので3cm角くらい)なので、背中や頭に当たるとピシャリと痛い。雨もだいぶ激しくて、ちょっと先もよく見えない。でもめげない。身をかがめ、拾っては口にふくむ。皆さんのはしゃぎっぷりと言ったら、幕末の「ええじゃないか」はこんな感じだったのでは?と思わせる感じです。

「おんな子どものようにキャッキャとはしゃげないぜ」というおじさんたちも、ちゃっかり子どもに食器やコップを渡し、拾い集めさせています。惜しげもなく豪快に降ってくるので、一分とたたずにコップは満杯です。


ご覧あれ、大雨のなか輝く大粒の雹。

雹は5分ほど続きました。いやぁ、大興奮ですばい。日本で霰(あられ)は見たことがありましたが、雹がこんなに大量に落ちてくるのを見たのは初めて。しかも、大人も子どもも大雨のなか外に飛び出し、地面に落ちた雹を拾ってぱくぱく食べているなんて!知らない人が見たら、なかなかにシュールな光景です。

雹の記念撮影をして、びしょ濡れの服を着替えて、髪をふいて、ふと冷静になってから思ったのでした。でっかい雹のかたまりが頭に直撃して怪我しなくてよかったなぁ、その場合、海外旅行保険は自然災害でおりるのかなぁ、でも自分から危険に飛び込んでいったから無理かなぁ、と。そして、ところで皆さんはなぜ狂喜乱舞してアレを食べていたのかなぁ?と。

お隣のクンバ姐さんに尋ねたところ、「ガリ(ジェンネ語で雹のこと)はアッラーの氷。食べるとたいへん体に良い。あれは薬だよ」とのこと。彼女は、病気で寝込んでいる旦那さんにたくさん食べさせていました。薬なのね。今回は特に多かった、とのことでしたが、ジェンネでは毎年一回くらい雹が降るそうです。

たしかに、こんな暑いところ、皆さん信心深いところで、空からバラバラと氷が降ってくれば、これはアッラーが降らせてくれた恵み、ひいては体によいもの、と人びとが考えるのには納得がいきます。そして実際、工場の排煙も車の排気ガスも無縁なジェンネの雹は、ピュアな感じでたいへんおいしい。甘く澄んだお味とでも申しましょうか。

その後ご飯を食べに向かった大家さんちでは、大家さんがふてくされていました。彼はモスクで礼拝中だったために雹を食べられなかったとのこと。「お前たちもガリ食べたんだろ?なんで拾ってとってといてくれなかったんだよぉ」と奥さんや息子に文句を言いだす始末。降り終えてしばらくしてからも、懐中電灯片手に「ガリ…ガリ…」とつぶやきながら、家のまえの路地を探っていました。嗚呼、ガリ。不惑をとうに越した中年をも惑わす、アッラーの氷。

ガリと言えば、わたしが思い出すのは日本のガリです。お寿司に添えてある、あの甘酢しょうが。何を隠そうわたしはあれがとても好きでして、よくガリ単独でぽりぽり食べていました。業務スーパーには、ガリの業務用パック(300gくらいだったかな)なる好ましいものが売っています。去年の今ごろは、それを肴に、ベランダで月を眺めながらひとりちびちび冷酒をなめる、という貧乏自堕落なことをしていたものです。ガリと言えば思い出されるそのお味。そんな不信心なわたしです。

でも、ジェンネのガリも日本のガリに負けず劣らず、たいへんおいしく、そして貴重なものでした。アッラーよ、おいしいガリをどうもごちそうさまでした。あと、きっと皆が食べやすいように、しかも怪我をしないように、雹の大きさを適度に調節してくだすったのも、どうもありがとう。

2009年8月29日土曜日

お薬がないなら、コーラを飲めばいいじゃない。

前回のエントリで、おなかの調子が悪いことを書きました。ジェンネではなぜか、おなかの調子が悪いとき、「コーラを飲みなさい」とすすめられることが多いのです。――というわけで今回は、ジェンネでの腹痛譚とコーラのはなしです。(ちょっとはずかしい話になるので、お食事中の方はお控えくださいまし。)

前回2007年の調査では、ジェンネに越してきてすぐにおなかを壊しました。それは、田舎特有の「遠慮せずに食べなさい、ほら、食べなさいったら!」の歓待攻撃に遭ってしまったからです。つまりは、食べすぎ(食べさせられすぎ?)でした。

いくら「本当にお腹がいっぱいなんです…」と言っても、奥さんは「遠慮しないの!あなたもこの家族の一員なんだから!」と、熱く勧めてくれます。さすがに気持悪くなり、ギブアップの意をこめて「お、おなか痛いよぅ…」と訴えたら、当然のように、「コーラ飲んだら?」とのお返事が。

「…コーラですか?」「そう。おなかがいっぱいのときは、コーラ飲むといいのよ」。このときはまだ、これはこの奥さんだけが信じている独自の治療法なのだと思って、「あはは、変わったお薬ですなぁ」などと笑ってすませました。そして、日本から持ってきた新三共胃腸薬で治しました。

そしてその2ヵ月後。またお腹をこわした私。ジェンネはスイカの季節でした。旬の時期には、一玉で250CFA(約50円)くらいと格安。日本で貧しい1人暮らしの私は、スイカ一玉1000円の特売でも、高くて手が出せません。ひと夏にスイカを食べるなんて1,2回あるかないかです。

そんな私の前に、ジェンネでは50円のスイカがごろごろと転がっている!毎日買って、長屋のお隣さんと分けつつ半玉食べぇの、冷蔵庫がないので水で冷やして楽しみぃの、たまに調子にのって一玉食べてお姫様気分にひたりぃの――案の定、お腹をこわす。

うちのトイレ(というかシンプルな穴と青空天井)は長屋の4家族共同なうえに、小さいほう用(1階の中庭)と大きいほう用(2階)が別です。なので、しょっちゅう2階のトイレに行く=お腹をこわしているということは、長屋中のひとにすぐに気づかれてしまうのです。とても恥ずかしい。トイレと部屋を行ったり来たりしている私を見かねて、お隣さんが、「ミク、あんた、お腹の調子だいぶ悪いの?」と聞いてきます。そして二言目には、「コーラ飲んだら?」

――あ、またコーラ。

前回は食べ過ぎ時の消化促進にコーラを勧められ、今回は下痢にコーラを勧められ。うーん。まったく逆の症状が、同じもの、しかもコーラで治るのか?お腹がゆるいときに炭酸飲料は大丈夫なのか?と不安になり、結局、日本から持ってきた正露丸を飲んで治しました。

そしてさらに数ヵ月後。時はマルカ・フゥの旬の季節。マルカ・フゥとは、ジェンネでよく食べられる豆の一種です。ほっくりしていて甘さがあります。形もころころ丸くてかわいい。かるく塩茹でして食べます。食べだしたらなかなか止まりません。(そこにお酒もあれば、なかなかよい組み合わせだと思うのですが。残念。)

ちなみにマルカ・フゥの「マルカ」とは、マリの民族集団のひとつです。地域によってはサラコレとも呼ばれる、主に商売に従事する人びと。中世には、マリに興った諸帝国で交易にはげんでその繁栄を支え、現在では、マリを飛び出してフランスやスペイン、中国などまで交易・出稼ぎに出かけている、商魂&フロンティア精神たくましき皆さまです。そして、「フゥ」とはジェンネ語で「ぷぅ」、つまり、おならのこと。

「なんでこの豆の名前は、"マルカのおなら"っていうの?」と聞くと、大家さんやその場にいたおじさま方いわく、「形がマルカのように丸くて、食べるとおならがでやすいからだ」。たしかに、ジェンネでは、マルカの人びとは商人でお金持ち、ゆえに、農民や漁民や牧畜民に比べると、ゆったりとした体格、というイメージです。(答えてくれたおじさんたちは、皆さんナチュラルな筋肉が美しい漁民と農民だったので、もしかしたら、商人へのちょっとした皮肉を込めた冗談だったのかもしれませんが。)

「へ~ぇ、おもしろい名前があるもんですねぇ」などと相槌をうちながらも、手は止まらずにマルカ・フゥに伸びる。相変わらずむしゃむしゃと食べていると、おじさんが一言。「そんなに食べたら、フゥが止まらなくなるぞ」。そしてさらに一言、そう、「寝る前にコーラ飲んどけ」。

――でたっ、コーラ!

ガスがたまりやすいときにもコーラなのか?コーラを勧められること三度目なので、これはさすがに無視できないと思い、コーラを売っているお店(マルカが経営)に向かいました。が、夜のためすでに閉店。別に、コーラを飲まなくても、翌日におなかが張ることはありませんでした。

さて、そんなこんなで今回です。三週間くらい前から、原因不明でおなかがゆるい。食べ物にあたったのでもない。水でもない。特に強い痛みもないので、精神的なものでもなさそう。病院に行って整腸剤や胃薬を処方されるも、効果なし。

――やはりここはコーラか?

というわけで、昨夕に1瓶、念のためきょう午前中にも1瓶のんでみました。1瓶250CFA(50円)。効果はまだ出ていません。

これが、「コーラは腹痛に効く」といううわさを流して、コーラの売り上げをアップさせようとしているコカ・コーラ社の戦略ならば、わたしはまんまとはまっています。日本にいたって、コーラを飲むことなんて年に1回あるかないかなのに。特に好きでもないのに。アメリカのモンスター企業の戦略にあっさり屈した気がして、ちょっと悔しいです。

それにしても、ジェンネの皆さんの「腹痛時コーラ信仰」、どこからやってきたんだろう。ジェンネでコーラが飲まれはじめたのは、町に電気がやってきて、いくつかのお店に冷蔵庫が設置された1997年頃からだそうです。ということは、ここ10数年のあいだに定着した信仰なのでしょうか。それとも、コーラ信仰は世界的なものなのかしら。

ともかく、お腹の調子が悪いとふらふらしてとてもだるいので、明日には効果がでてほしいところです。うーん。



【写真】直立不動の少年とスイカ。安かろうがうまかろうが、食べすぎには注意。さすがにこれだけ立派なスイカだと1250CFA(250円)くらい。わたくしの次兄・心くんがマリにて2007年末に撮影。(心くん、かわいい写真だったんで、またも勝手に使わせてもらいました。ごめん。)ちなみに兄はいま、アラスカのユーコン川をカヌーでくだりおえ、カナダにいるそうです。http://whereiskokoro.blog34.fc2.com/

2009年8月26日水曜日

お困りアテテ。

お元気ですか。わたしは長いこと、お腹は痛くない(鈍い違和感はある)のに下痢です。なんなのかしら、これは。どなたかこれをご覧になっている内科関係の人がいたら、教えてください。(ジェンネの病院に行ったら、外傷でない場合たいてい「マラリアですね~」で片付けられてしまうのです…)。それ以外はいたって元気です。

さて、マリの大統領はAmadou Toumani Touré(アマドゥ・トゥマニ・トゥーレ)といいます。マリの皆さんはかれのことを、その名前の頭文字をとってATT(アテテ)と呼んでいます。1991年に軍事政権をクーデターで倒した中心人物のひとりであり、2002年には大統領に初当選し、2007年に得票率70%ちかくで再当選。任期は2012年までです(大統領は最長二期まで。)

さて、そんなATTが、なんだか困っています。

8月上旬、マリの国会で家族法の改正案が可決されました。一部のマリの人びとが、「この改正はムスリムの在りかたに反する!」と怒っているのです。マリのムスリムにつよい影響力をもつHaut Conseil islamique(イスラーム高等委員会)も反対を表明。マリ各地の主要都市などで、大統領に改正を破棄するよう求めるデモも行われています。ジェンネでもつい先日、州知事へ要望書が提出されました。

そんなわけで、法律を通しちゃった大統領ATT、思いのほか激しい国民からの反対にたじたじ。

***

さて、問題になっている家族法の改正案がどういうものかと言いますと…いろいろ改正は行われたようですが、議論のおもな対象になっているのは、遺産相続と婚姻にかんする以下の点です。

まず遺産相続。ひとつは、婚外子の遺産相続にかんして。

新しい法律では、婚外子(婚姻関係にない男女のあいだに生まれた子ども)と嫡出子の財産分与額が均等になります。マリには、日本よりはるかに、結婚せずに子どもを生んでいる女性が多いと思います。「北欧か!」とつっこみたくなるほどの多さです。日本だとその子を産んだお母さんは社会的にも経済的にも孤立してしまいそうですが、わたしの印象では、マリのそうした女性と子どもは、親や兄弟、近所のひとに助けられながら、けっこうのんびりやっています。

ちなみに、わたしの長屋のお隣さんは、両隣ともこの例です。しかも親子二代にわたって。
まぁもちろん、既婚者とのあいだに子どもができてしまった当初は親戚からやんやと言われていたようですが、かわいい赤ちゃんがおなかからぽろっと出てくれば、皆さんでろでろ。家族だけでなく、お近所中からかわいがられています。「お父さん」はたまぁに赤ちゃんに会いに来ては、「パパでちゅよ~」と言って赤ちゃんの洋服やおもちゃを置いては、そそくさと帰って行きます。…まったく。

そんなわけで、改正後の事例にあてはまる人が多いので、当事者――婚外子である子ども、その子を産んだお母さん、「お父さん」だけどその子のお母さんとは結婚してない男性、その他あれやこれやとかまびすしい親族――にとって、この改正のインパクトは大きいと思います。「これでは結婚せずに子どもを産む女性が増えて、本来あるべき結婚の美徳が軽んじられてしまうではないか!」というのが、反対する皆さんの危惧です。

もうひとつ、遺産相続についての改正。娘と息子の遺産相続について。

あたらしい法律では、証人の前で宣言されたり、遺言状で明示された場合には、息子と娘の財産分与が均等になります。日本では基本的に相続額に男女の区別はないですが、マリではたいていの場合、そうではないそうです。つまり、これまでは、お父さんが亡くなったら娘は息子の半分以下の遺産の分け前しかもらえなかったそう。改正は、それを男女の区別なく同じ額にしよう、というものです。

さらに婚姻について。役所への届け出の義務化です。

改正法では、以前このブログでもご紹介した「行政婚」(役所で"公式に"宣誓された結婚)しか、結婚として認められないことになります。これまで長いあいだおこなわれてきた、伝統的・宗教的な結婚式だけでは、「結婚」と認められなくなるそうです。

つまり、伝統的な結婚式をしっかりとりおこなって、それによってそれぞれの家族や地域の人びとに夫婦として認められて、あぁやれやれよかった…と思って子どもを産んだら、「行政に届けてないから、あなたたちは夫婦ではないし、その子どもは婚外子ですよ」と言われるのです。

こうした、これまでマリで広くおこなわれてきた、イスラーム法にのっとった、マリの伝統にのとった遺産相続や婚姻のありかたを否定する・禁じるような改正に、人びとが怒っているのです。

また、他の改正内容には、「奥さんが商売をはじめるのに、もう旦那の許可は必要なくなる」といったものも。というか、今まで旦那の許可が必要なことを知りませんでした。

「今でも、妻が商売を始めるのに反対する夫はあまりいない。そんな男は愚か者だ。女は働き者だし、たいていの場合わたしら男より商才がある。商売を始めたかったら、奥さんから旦那さんにお伺いをたてて、夫婦で話し合って、旦那が「じゃぁ頑張ってね」と言って問題なくやってきたのに、なぜこんな「西洋的な」文言をわざわざ入れる必要があるんだ?」――とは、近所のおじさんのことばです。

彼の奥さんは、バリッバリの商魂たくましい女性で、わたしの家にもたびたび「あんただけに特別よ!いい布が入ったのよぉ」などと、なかば強引に布を売りつけにきます。

***

今回の騒動、家族法の改正は、あくまできっかけに過ぎないような気がします。大統領のこれまでのやり方に抱いていた疑問が、この「イスラームの在りかたに反する」ような改正法をきっかけに噴出した、そんな印象を受けます。

ATTのやり方は、とにかく派手です。そしてお金のにおいがぷんぷん。大規模な公共事業をばんばん行い、国営テレビで毎日自分の動向を流させ、国外遊説にも精力的。そのおかげか?、マリの経済はぐんぐん伸びつつあります。また、ムスリムが大半の国にかかわらず、ムスリムのことを嫌いな欧米からも、マリは「民主化の優等生」だとほめられています。

マリの経済発展は、「干ばつを抜けた」とも言われる安定しつつある雨量と、それによる農業の復活と、経済が安定しつつあるのに相変わらず欧米から垂れ流される莫大な開発援助金&投資、そしてたくましく世界各地に出稼ぎにいっているマリ人からの送金が最大の要因だ、とわたしは思っています。

でも、「国が豊かになったのはATTの政策のおかげだ!」といのが、二期目をねらう選挙時のかれの陣営の主張でした。実際にその主張に同意した有権者がたくさんいたからか、ATTは再選(大統領は直接選挙で選ばれます)。わたしは2007年の大統領選挙期間中もマリにいましたが、イケイケドンドンといった勢いでした。なにせかれの選挙時のキャッチ・フレーズは「Un Mali qui gagne!」(勝てる/稼げる/進歩するマリ!)。うぅん、まことにギラギラしています。

でも、二期目も一年を過ぎ、たくさんの人が、「…あれ?」と思ってきている、そんな雰囲気を感じます。(べつに私は政治アナリストではないので、以下の記述はあくまで「雰囲気」です。論文でないんで、ゆるい表現お許しを。)

というのも、最近のマリ政府は、やたらと「西洋」っぽくなろうとしている、そうなれるマリはすごいんだぞ~!おしゃれでモダンなんだぞ~!と意気込んでいる、その先頭にATTがいるからです。もちろんその背景には、そうすれば欧米からたんまりと援助金がもらえる、という事実があります。

マリは古い歴史をもつ地です。中世から帝国が栄えました。イスラームは10世紀頃からはいってきました。独自に発展してきた米作や綿花などの農業も(雨さえ降れば、川の増水さえ十分ならば)とても豊かです。そんな長い歴史のなかで築かれてきた、秩序だとか人びとの穏かさだとか生活のあり方、そういうものを尊重するよりも、「西洋」のお尻を追いかけてきゃっきゃとはしゃいでいる国のあるじに、皆さんが「チョットちがうんじゃない…?」と違和感をもちはじめたのだと思います。

わたしはマリ国民ではないけれど、部外者のわたしでさえ、なんだかマリが「プチ・西洋」になりつつある奇妙な違和感をいだいています。西洋化=悪い、というわけではないけれど、その土壌がないところに、うわべだけ西洋化のめっき(しかも安普請の突貫工事で)をほどこしても、すぐにガタがくるんでないかしらん。そんな気がします。

ATTは金髪のロングヘアーにあこがれているのかな。チリチリ縮れ毛は醜いと思っているのかな。「この縮れ毛が伸びにくいのなら、きれいに編みこんでおしゃれにしましょ!」と、さまざまな編みこみの技法を発展させてきたマリの人びとの技にこそ、「国の発展」があるように思うのですが。

まぁ、国民が大統領への反対をはっきり表明できる点、表明しても逮捕されたりしない点、しかもその表明方法が暴動ではなく、デモや嘆願書、各政治・宗教団体の声明発表という形でなされている点をかんがみると、マリはやはり「民主化の優等生」なのかもしれません。


【写真1】ATT。よく言えば、親しみやすいお顔。バッチリおめかししてるけど、どこか近所のおっちゃん風情。


【写真2】本文とは関係ありませんが、今でも「彼はハンサムだったなぁ!」とマリ人がたびたび懐かしむ、マリの初代大統領モディボ・ケイタ(1915-1977、在任期間:1960-68)。おぉ、たしかに、穏かな凛々しさ。大統領というより若き王様っぽい。ちなみに身長は198cmだったそうです。Quel homme grand!

2009年8月23日日曜日

ハウメ。

きのう土曜日から、断食月ラマダーンにはいりました。

その前日の金曜日、ジェンネの皆さんは、西の空に新月を確認していました。密集した家々の屋上で、大人も子どもも、皆がうきうきした感じでひとつの月を眺めている光景は、とてもステキでした。イスラーム暦は太陰暦なので、新月とともに新しい月が始まるのです。ラマダーンの開始を、自分たちの目で確認していたというわけ。

新月は、じゃれた子猫が空にうっかりつくってしまった引っかき傷みたいで、かぼそくて色っぽかったです。



【写真1】「オランジュとともに良いラマダーンを!」 ラマダーン中は携帯の夜間通話料も安くなります。ラマダーン中の特別サービス内容をお知らせする、携帯会社オランジュからのショート・メール。

この月のこと、また断食そのもののことを、ジェンネ語で「ハウメ」といいます。ハウはくっつける、メは口の意味なので、つまりは断食=「お口チャック」の月です。

日本語の「ダンジキ」という語は、どことなく迫力のある響き。濁点率50%だし。一方、「ハウメ」という言葉には、どこか不思議な風情が。この語は、ジェンネのラマダーンの日々を、意味だけでなく響きからも上手にあらわしているように思います。

わたしはムスリムではないので、ジェンネにいても断食はしません。それに、病院もあってないようなここで体調を崩しでもしたら、多くの人に迷惑がかかります。食べてなんぼの体づくりです。でも、これは大きな声では言えませんが、断食の「ふり」のようなものだけはします。マリは人口の90%ちかくがムスリムの国。さらに宗教都市ジェンネでは、ごく一部をのぞいて、皆さんムスリムです。ラマダーン中の断食も、「大人だったらハウメするっしょ?」という感じ。

そんななか、「わたしはスリムじゃないんでね」と言って、食べ物も水も口にしない人たちを前に、くぴくぴ水を飲んだりぱくぱくご飯を食べたりするのは…さすがに気がひける。意外と気が小さいのよ。

なので、水はお部屋のなかでひっそり飲みます。お昼ごはんは、いつもは大家さん一家と一緒に食べていますが、ハウメ中は、断食をしない小さな子どもたちと週に3回くらい細々と食べ、ほかの日は自分の家で1人で食べます。なので、人によってはわたしも断食してるように思うようで、「ミクもとうとうわれわれの仲間入り!」と喜んでくれたりします。

こう書くと、断食はムスリムのあいだで有無をいわさぬ厳格さで実行されているようですが、もちろん強制ではなく、例外もあります。ジェンネには、おとなでも体調や年齢を理由にハウメしない人もいます。しかもその「体調が悪い」の敷居が、拍子抜けするくらい低かったりします。気候がシビアですから、無理は禁物なのです。また、妊娠中・月経中・授乳中の女性は断食しません。

なんらかの理由でハウメできなければ、断食月を過ぎてからでも、決まったやり方で一定期間断食をしてリカバリーできる便利なしくみもあります。例外のない規則はない、寛容のない神はない、というわけです。

また、よそではどれくらいの年齢から始めるのか知りませんが、ジェンネでは、食べざかり育ちざかりの小さな子どもは断食しません。でも、子どもは背伸びして大人のマネをしたいもの。「あんたはまだちっちゃいからハウメしなくていいんです!さっさと食べなさい!」とお母さんに叱られても、「いや、食べない。ぼくもバーバ(パパ)と一緒にハウメする!」と言い張って食べない子も。ぷち・はんがーすとらいき。

10歳くらいになって週に1,2日くらいハウメできる年になると、オトナの仲間入りができた誇らしさがあるようです。「えぇ!?ミクはハウメしてないの?大人なのにぃ?あ、ちなみに僕はしてますけど」と、わざわざ自慢しにくるちびっ子もいます。

皆さんにハウメ中の楽しみを尋ねると、断食明け(日が落ちた後)の夕食、という人が圧倒的に多い。お昼ごはんを食べないぶん、いつもよりちょっぴり豪華です。お肉が多かったり、ミルク粥がついたり、一品が二品になったりします。そして日中の空腹を満たすため、とうぜんボリューミー。開放感から人びともごきげんで、家族全員がどことなくわいわいがやがやします。わたしの印象では、ラマダーンは苦行の月というよりも、やはり「聖なる月」。

豪華な夕食のため、ハウメの月は食費がかさみます。皆さんやりくりが大変だそうです。ラマダーン入り前日のお昼にも、「米、砂糖、小麦粉、粉牛乳のストックは国内にたっぷりありますから、ラマダーンの入り用でも品薄になることはありません。ご安心を。品薄感に便乗した値上げなどがないように、当局がちゃんとチェックしてます」というニュースがテレビで流されました。「ラマダーン品薄」が心配されるくらい、この月のエンゲル係数はアップするのでしょう。

わたしが好きなハウメ中の楽しみは、夕食よりむしろ、断食前(日が昇る前)の朝食です。日が昇ったら断食開始なので、皆さん、朝ごはんを4時とか4時半くらいにとります。せっかくなのでわたしも、この時間に一緒にとります。食事は基本的に外か外が見えるベランダや玄関間で。

早朝食の時間、空はまだ夜。日本では人里離れた山奥でしか拝めないような数の星が、わぁっと広がっています。この時期の早朝は、すこし肌寒いくらい。とっても静か。動物も眠っているため、虫の声しか聞こえません。小さな子どもはまだすやすや夢のなか。そんななか、寝ぼけ眼の大人が、長屋の中庭にぽつぽつ座っています。

この朝ごはんを食べ逃すと、前日の夜からこの日の夕方まで20時間近く、何も食べないまま過ごすはめに。なので、断食しているはずなのに起きてこない隣人がいたら、「お~い、おはよー、食べないの?」と声をかけ合ったりします。薪や炭で火をおこして、昨晩の残りものなどを温める。騒がしい昼間には意識しない、ぱちぱちという薪がはじける音と、ゆらゆら赤い火にほっとします。普段かまびすしい近所の奥さまがたも、寝起きでぼ~ぅっとしていてもの静か。寝起きで朝食を食べ終えると、まだ日の出までにはちょっと時間があるので、贅沢にも、皆さんつかの間の二度寝に戻ります。

こんなとき、「あぁ、ハウメもいいもんだなぁ」と、柄にもなくしみじみします。この雰囲気、「ダンジキ」ではないな。やっぱりここは、「ハウメ」と呼びたい。



【写真2】ある午後の中庭。ここで早朝ごはんを食べます。昼間はこんな感じ。長屋に3人もいる赤ちゃんの服が、物干しを占拠。あぁ、雨後のキラキラ太陽に映える幸せの黄色いロンパースよ。そして私より衣装もちの赤ちゃんよ。

2009年8月17日月曜日

ジェンネのパン屋さん。

パンの話。

ジェンネのパンはおいしいと思います。これほんと。

マリの主食は米を中心とした穀物ですが、パン食も都市部を中心に一般的です。60歳のおじさんいわく、「今ほどではないが、わたしが子どもの頃からパンはあったよ」。ということは、マリのパン食の歴史は、フランス植民地支配がはじまる1900年前後までさかのぼるのかもしれません。

地面も家もモスクもぜんぶ泥でできているジェンネは、もちろんパン窯も泥でできています。しかも薪と炭の火です。電気オーブンでなく「泥窯」であるところがおいしさの秘訣なんやろぅか?あまりパンに詳しくないのでありきたりな表現しかできませんが、いわゆる「外はカリカリ、中はふわっ、の素朴な味」。パンの種類は一種類のみです。きゃしゃで40cmくらいのバゲット、一本100CFA(約25円)なり。

ジェンネには、私の知るかぎり、15軒くらいのパン屋があります。ジェンネのパン職人は、ほとんどがフルベというエスニックの人たち(他の町ではどうなのか、調査したことがないので分かりません)。もともとフルベは牧畜民。たいていの場合、男性は牛の放牧、女性は乳製品の売り子をしています。そんな彼らがなぜパン屋?――近所のパン屋の男性ジャロさん曰く、

「パン屋の仕事は楽じゃない。毎朝早起きして、大量の粉をこねて、50度の気温の日でも窯の前で働いて、朝から夜までずっとパンを焼く。そんな根気と体力のいる仕事、ほかのエスニックにはできないね」

とのこと。たしかに、すべて手作業ですから、この暑さもあいまって、かなりの重労働です。「ほかのエスニックにはできない」のが本当かはともかく、自分の仕事に誇りをもっている姿は、すがすがしゅうございます。

パン工房はふつうの家の敷地内にあったり、そこらへんに小屋を建てて窯をかまえていたりします。ジャロさんに窯を見せてもらうと、けっこう立派な大きさでした。




【「こうやって窯にいれま~す」と笑顔で実演してくれるパン屋さん】焼くのは彼といとこの仕事。焼けたパンを自転車で市に持っていくのは末の弟、市場の前の道でパンを売るのはすぐ下の弟と奥さん。「近ごろ息子(4歳)がパンの成形を手伝ってくれるんだよね、僕のマネしてさぁ」とうれしそう。…だからなのか?近ごろ彼のところで買うのパンに、バゲットというには妙に短くぷくっと太ったパンが混ざりこんでいるのは。



【パン種】ちなみにパン種が入っているこのブリキ容器には、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)のロゴが。たくましき再利用。きっとかつての干ばつの時代には、この容器に数々の緊急支援食料が詰め込まれ、食糧難にあったジェンネに届けられたのでしょう。今は、もっちりと幸せそうなパンだねがほくほく寝転んでいます。

さて、なぜ突然パンのはなしをしたのかと言いますと、もうすぐイスラーム圏はラマダーン(断食の月)にはいります。パン窯を見学させてくれたジャロさんは、敬虔なジェンネの人びとのなかでもさらにストイックに断食を実行する人らしく、以前かれが、「断食中は自分の唾も飲み込まないぜ!」と豪語していたことを思い出したからです。

毎日大量の粉をこね、日に何度も火の前で汗をたらしながらパンを窯に入れる。そんな仕事のなかで、日が昇っているうちは水も摂らず、唾も飲み込まない(唾不溜飲はあくまで自己申告、あくまで心意気)とは…。ジェンネのパン屋さんはたしかに、あなたのような気合のはいった人にしかつとまらないのかもしれません。その働きっぷりを、あなたたちの神様はきっと見てくれてると思います。

ラマダーンは今週の木曜日から。

2009年8月13日木曜日

ティラフ・イジェとワラ。

雨季にはいったのに、相変わらずまともな雨が降りません。ジェンネ周辺の田畑には灌漑設備がないので、雨水が頼り。耕して種まきして、あとは例年ならもう降っているはずの雨が田に入ってくるのを待つのみ――なのですが、今年はまだ降らない。このまま収穫ゼロになってしまうのか?と、皆さんとても不安そうです。

今日はかわいいティラフ・イジェ(コーラン学校の児童)のお話。

***

お隣クンバ家の息子、ジャカリジャ君とアブ君きょうだい。ジャカリジャが10歳くらい、アブは8歳くらい。他の大多数のジェンネの子と同じく、小学校だけでなく、コーラン学校にも通っています。

いま小学校は夏休み中なので、子どもたちはコーラン学校だけに通います。ジャカリジャとアブも、朝7時頃、近所のおじいさんとその息子がやっているコーラン学校に出かけていきます。コーラン学校は、広場の木の下や先生の家の玄関間で開かれ、先生もたいていがなじみの近所の人(もちろん学を積んだ人ではありますが)。なので、「学校」というよりコーランの「教室」といったほうがしっくりくるような身近な感じです。

子どもたちは、コーラン学校に自分の木の板を持っていきます。木の板はジェンネ語で「ワラ」。アラビア語起源の語だそうです。これに先生や自分が、インクでコーランの一節を書き、なんども復唱して覚えます。覚えたらインクを水で洗い流し、また新しい節を書いて覚えます。ジェンネでは朝方、小さな子どもたちがこの板を持って、それぞれのコーラン学校へ向かっている姿が見られます。寝ぼけ眼の小さな子どもが、大きなワラを胸に抱きかかえてトコトコ歩いている姿は、とてもかわいらしい。

兄ジャカリジャは最近、いつでも自分の後をついてこようとする弟アブのことを、すこし疎ましく思っているようです。兄は弟を疎ましく思い、弟は兄の真似をしたがる、そういうお年頃の兄弟。今朝も兄は、弟を置いてひとりで先にコーラン学校に行こうとしていました。それを見つけてアブが「あっ!ジャカリジャ!ジャカリジャぁ!ねぇ、待ってよぅ」と板を抱えて急ぎます。「いっつもいっつもジャカリジャジャカリジャって、うるさいんだよお前は!」とジャカリジャが振り返りざまに言ったそのとき、アブ、急いだあまり派手にこける。ワラが落ちる。

アブはあわててワラを拾い、さっとからだをかがめて、ワラが落ちた地面を右手で触ります。その右手で自分の頭を触り、地面、頭、地面、頭――と黙ってすばやく三回繰り返す。そうしてようやく、兄のもとにトコトコと駆けていきました。普段は、毎回同じ悪さや失敗をしてお母さんに厳しく叱られ、それでもぼ~っとしているような呑気な子ですが、この動きはとてもすばやく、その姿はどこか厳かな感じすらしました。

ジェンネの子どもたちにとって、ワラはコーラン、つまり預言者ムハンマドを通じて語られた「神さまの言葉」を書き付けた板です。それを落とすということは、あぁ、せっかく覚えて頭に入れた神さまの言葉が、こぼれ落ちちゃうよぉ!――ということで、ワラが落ちた地面を触り、頭に「戻す」のです。こうした作法も、コーラン学校の先生が教えます。先生も親も見ていないところで、しかもお兄ちゃんを追いかけて大慌てのときにも、この作法をしっかり守る。そのアブの姿が、けなげでいじらしくて、きゅんとしました。


【ジャカとアブ兄弟】わたしの兄が2008年始にジェンネに遊びに来たときに撮ってくれた写真です。(心君、写真使わせてもらいました。自転車世界一周旅行中の兄のブログはこちら→http://whereiskokoro.blog34.fc2.com/)

木曜日がコーラン学校の休校日。前日の水曜日のコーラン学校では、この一週間で覚えたことを忘れないように、同じように、神様の言葉をワラからからだのなかへ「戻し留める」作業がおこなわれます。学校や先生によってそのやり方はすこし異なります。

例えば、

頭から戻し留める場合。先生が「はい、じゃぁ、載せなさ~い」と言うと、生徒が自分の頭にワラを載せ、小さなお手手でおさえます。子ども、途端に黙っておとなしくなる。その子どもたちに向かって、先生がむにゃむにゃと何か言います。コーランを留めるためのお祈りです。こうしてしっかり頭に留めます。

口から戻し留める場合。先生がそれぞれの子どもの手のひらに、コーランの一節をインクや指で書きます。子どもはそれを、ぺろっとなめる。こうして「食べる」ことで、しっかり取り込みます。

どの場合にも、先生が「はい、おしまいです」と言った途端に、子どもたちは蜘蛛の子を散らすようにさーっと駆け出し、きゃっきゃとはしゃぎながらおうちに帰っていきます。その神妙さとはじけっぷりのギャップが、実に子どもらしい。

ここの子どもには、神さまのことばというのが、比喩ではなく本当に、「からだに染み付いている」のだなぁ、と思います。まぁそのわりに、「きょう覚えたとこ復唱してみて」と私が聞くと、アブは「…ん~?忘れた~ぁ」などと言って、虫を捕まえてツンツンいじったりしているのですが…。

日本で「コーラン学校」というと、一時期、とても極端な報道がありました。「タリバーン勢力の養成学校になっている」とか言われ、ぎっしり詰まって座った子どもたちが、一心不乱にからだをゆすりながらコーランを覚えている様子ばかりがテレビで流されました。
あたかもそれが、とても奇妙で不気味なもののように。

わたしはアフガンのコーラン学校の実情をよく知りませんが、あれはやはり、偏りすぎた報道だったと思います。子どもがちょっと長い言葉を暗記しようとすれば、節をつけてからだでリズムを取りながら覚えるのは、別に妙なことではありません。ぎっしり詰まって座っているのも、単にスペースがないからか、そうしたほうが、先生が生徒を指導しやすいからでしょう。これが妙なテロップやコメントとともに流れてイメージが固定されたものだから、日本で「ジェンネの子は皆コーラン学校に通う」という話しをすると、「まぁ、ジェンネってこわいところなのね、大丈夫?」と聞かれたりします。

いやいや、そんなにこわいものではない。ふつうです。だら~っと座っていたら、もちとん先生から叱られます。よくできたら誉められます。暑くてワラでぱたぱた扇いでいたら、こらっ!と小突かれるます。先生が他の子を指導しているあいだに、子供どうしでこそこそ話をしていたりもします。がっちがちの宗教人間製造工場でも、テロリスト養成所でもありません。ふつう、です。

アブのこのかわいくてけなげな仕草も、ここだけ切り取られてカメラで撮られ、「こうして、神への徹底した敬意が身体化されていくのです!」とかもっともらしいコメントがつけば、不気味な印象を与えてしまうんだろうか?ワラと神さまの言葉を大事にしている、呑気でかわいい子どもなだけなのに。

ふとそんなことも思った、ティラフ・イジェとワラのお話でした。


【あるコーラン学校の前】あっちにもこっちにもワラ。