2010年3月7日日曜日

タイミングの妙、社会の妙。

あちこちで報道されているので、みなさんご存じだと思います、このニュース。奈良県で5歳の男の子が、親から食事を与えられずに死んでしまった、というニュースです。報道によると、何度か通報や家庭訪問があって、近所のひとも「なんか異様だ」と感じていながら、踏み込めなかったのだとか。

こういうニュースを聞くたびに、しばらく暮らしたマリ共和国のジェンネでの長屋生活を思い出します。同じ長屋の右隣の一家のお母さんは、子どもにとても厳しい人でした。やんちゃざかりの二人の小学生の息子は、たびたび、お母さんにバシバシ叩かれていました。そういう厳しいお母さんの子どもにかぎって、おっちょこちょい。市場におつかいに行く前に、「落としちゃだめだよ」と何度も言いきかされて握りしめていた小銭を、なぜだか落としてくる。お母さんが中庭に唐辛子を天日干ししているすぐ横で、うっかり立ち小便をする。朝、「ほら、学校に遅れるだろ!」と何度起こされても、まったく起きない。どれも子どもらしいといえば子どもらしい、ほほえましい失態です。が、ここの息子たちは、「怒りっぽいお母ちゃんを怒らせるツボ」を、わざと刺激しているんではないかと思えるほど、一日に何度もこういう失態を繰り返すのです。

さて、そういう場合、お母さんは猛烈に怒りだします。子どもに話して聞かせる方針のひとももちろんいますが、ここのお母さんは、1分ほどことばで激しくしかりつけた後、有無を言わさずビシバシです。お母さんが木の枝(けっこう太い)やゴム紐(トラックの荷台に荷物を括りつけるのに使うような幅の広いやつ)を握ったが最後、子どもは『やられる!』と察知します。おうちのなかから、長屋の共有スペースである中庭に飛び出してきます。

わたしを含め、同じ長屋の大人たちは、まずは静観。おつかいの途中で友だちと泥遊びをしたために小銭を落としたこの子、干してある唐辛子のすぐ横で立ち小便をしたこの子、起こされても起きないこの子が、まぁ、いけないのです。だから、まずは静観です。でも、ここのお母さんは、子どもにたいしてはなかなかに感情的なひと。近所もひともそれは分かっています。だから、彼女が怒りはじめると、「おぉ今日はなにをしでかしたんや」という感じで、部屋のなかから耳をそばだてたり、中庭に出て行ったりします。

さすがに、子どもが木の棒で腿を叩かれている姿は、痛々しい。あれは痛いやろうなぁ、とこちらまで緊張からドキドキしてしまいます。「叱る」を通り越して、もぅコントロールが利かなくなって怒り狂うお母さんの形相も、なかなか恐ろしい。ちょっとしたホラー・スペクタクル。そこで『あ、今日はさらにエスカレートしそうやな』と察知すると、数十秒たって、長屋の大人が止めにはいります。もしくは子どもが、さささっとお母さんから逃れて、ほかの大人のところに助けを求めて駆けてきます。

この光景を最初に見たときには、とても驚きました。

棒を振りかざして怒り狂うお母さん。ギャー!と泣き叫ぶ子ども。ころ合いをみて止めにはいる長屋の大人。ほっとしたようにほかの大人のもとに駆けて抱きついてくる子ども。はぁはぁと息を切らしながら「だって、このダメ息子が、わたしが唐辛子を干してる傍で、小便を、小便をしたんよ!唐辛子にかかるやろっ!!」と皆に説明するお母さん。「まぁまぁ、もうええがな」と、彼女の肩を押さえながら、手にしている棒をさりげなく取り上げる近所の大人。―――すべてが、絶妙なのです。加減といい、タイミングといい、それぞれの役割分担といい、絶妙。毎回繰り広げられる体罰スペクタクルの予定調和、というわけでもないのです。やはり毎回、お母さんの怒り狂う度合いは違うし、子どもの反応も違うし、それに合わせて、割って入るタイミングも違う。でも毎回、絶妙なのです。

この長屋に住みはじめて2か月もすると、わたしもようやく、このタイミングをつかめるようになってきました。ちょっとタイミングを間違えるといけません。一度、「お母さん激昂3秒前」くらいのタイミングで、わたしのところにビクビクと逃げ込んできた子どもを、うしろにかばって守ってあげたことがありました。すると子どもは、『今度なにかしでかしてお母ちゃんに叱られそうになったら、その直前にミクのところに逃げれば叱られずに済む』と狡猾にも思ったようです。数日後、またお母さんが激昂しそうな5秒前に、うそ泣きしながらわたしのところへ「ミク~ぅぅぅ!!」と走ってきました。明らかに、じぶんが悪いことをしたと知っているのに、うまいこと叱られ回避をしてきました。これではいけません。

たしかに、棒で叩くのはいけない。それに、ここのおっちょこちょい息子たちがしでかすことは、わたしが母親ならそこまで怒るほどの失態ではない。でも、ちょっとしたことでも激しく叱りつける、というのが、ここのお母さんの方針なのです。そして、叱っているあいだに、だんだんエスカレートしてしまう、というのが、ここのお母さんのちょっと困った性格なのです。「見境がつかなくなるのは、母親として、大人としていけないのでは?」と思われる方もいらっしゃるでしょう。彼女の名誉のために書きますが、彼女は激昂していないときは、とても賢い母親です。どんなに貧しくてもお金を工面して学校用品を買い与えるし、じぶんは何年おなじ服を着ていても、お祭りのときには子どもの服を新調するし、食べざかりの子どもにごはんをけちることは決してしないし、ひとの悪口は決して子どもの前では言いません。でもいかんせん、怒ると乱暴になる。

でも、かといって、ここの息子がお母さんに叩かれて大けがをしたことはありません(すり傷とかみみずばれくらいはたまぁにできてるけど)。わたしを含め、止めに入った長屋のほかの大人が、とばっちりをくらったこともありません。子どもをかばった大人が、そこのお母さんに文句を言われたこともありません。なんというか、いろいろと絶妙に、コントロールできているのです。セルフ・コントロールできない人のために、まわりがうまいことコントロールしてくれるのです。そしてときには、いつも近所のひとに子どもへの体罰を止められているこのお母さんが、別の長屋のお母さんが子どもを叱って激昂しているときに、「あんた、それはやりすぎやっ!」などと言って、止めに入ることもあるのです。(これを見たときにはさすがに、「あなたが言えることではなかろう…」と可笑しくなりましたが。)

先日の奈良の事件も、これまできっと何百人もいた、親からの虐待のために亡くなった子どもたちも、こういう絶妙なタイミングを心得た大人たちがまわりにいたら、きっとこういうことにはならなかったのだと思います。親になったからといって、心穏やかに子どもをいつくしめる人ばかりではない。子どもを育てられない性質のひとに子どもができてしまうことは、ままあることだと思います。親としての力量に限らず、あなたもわたしも、どこかでいろいろと、ダメな人間なんだと思います。だからこそ、絶妙にまわりが制してくれる、絶妙にまわりが鼓舞してくれる、という関係が、とても重要だと思います。そして、今の日本で、こういう関係が生きる社会をもう一度つくるのは、とても大変なのだということも、よく分かります。でも、どうにかしたいな、そのためにはじぶんはなにをできるかな、などと、こういうニュースを聞くと、強く思います。

すこし前に、『Big Issue日本版』135号(2010年1月15日発行)で、雨宮処凛が、似たようなことを書いていました。(彼女は「大阪ホームレス会議」をトピックに、もっと端的で巧みに、そしていくぶんラディカルに書いていましたが。)いわゆる「ダメ」なところのある人間だって生きられる世の中というのは、たぶん、みんなにとって居心地がいいはずだ、という内容です。興味のある方は、駅前などで立ち売りされていているこの雑誌を買って読んでみてはいかがでしょう。